『山と溪谷』が1000号続いた理由。鍵は「大衆路線」と「広告重視」にあった

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歴史上、数多くの山岳雑誌が誕生しては消えていくなか、『山と溪谷』だけが93年も続く存在となった理由とは。それは、創刊2号と3号を読み解くことで見えてくる。

文=布川欣一

川崎吉蔵は、雑誌『山と溪谷』の編集方針を確定できないまま創刊に踏み切ったのではなかろうか。あるいは、一定のイメージを想い描いてはいたものの、人間関係や編集作業の制約などから余儀ない妥協を強いられたのかもしれない。私がこのような感を抱くのは、創刊号〜第4号は、雑誌としての編集方針が定まらず、試行錯誤を続けたように見えるからである。現在に受け継がれる「大衆路線」と「広告重視」の方針が固まるのは、第4、5号あたり以降で、ほぼ1年近く右往左往を続けた。

1907(明治40)年、東京・芝に生まれ育った川崎は、攻玉社中学(旧制)時代から登山に親しみ、冠松次郎の推薦を得て日本山岳会に入会した。進学した早稲田大学では、卒業まで山岳部に所属する。その山岳部は20(大正9)年の設立、先行した学習院、慶応義塾に並ならぬ対抗意識を抱いて、「岩と雪」時代の精力的な登山活動を重ねてきた。

大学最終学年の川崎は、折りからの「昭和恐慌」の影響で就職先を得られぬまま、身辺からの慫慂もあって、山岳雑誌創刊へと傾く。その川崎を捉えたのが、英文学者の田部重治が29年5月に著わした『山と溪谷』であった。

田部は、明治期の「探検」時代の先端を担う一方、奥秩父の「深林と渓谷(たに)」に日本山岳美の典型を見いだす。そこに、頂上だけではなく、登山口の山村から下山口までの「山旅」を味わうのである。これは、登山をスポーツとし、より困難で激しい登高を自らに課すアルピニズムの対極に立つ登山観で、「静観派」と呼ばれる系譜の源流に位置づけられる。

田部の『山と溪谷』は、そのような「山旅」とスキーを楽しむ行とを、前著(『日本アルプスと秩父巡礼』19年刊)に加えていた。いわゆる「静観派」の系譜は、大正期以降、学生やOBを中核としてアルピニズムを担う系譜に対して、大衆のあいだに拡がった登山ブームのなかで生き続け今日に至る。

『山と溪谷』第2号の表紙(1930年7月刊)
『山と溪谷』第2号の表紙(1930年7月刊)

川崎は田部の登山観に感銘を受け、新しい山岳雑誌を商業的に成り立たせるには、これら登山愛好の大衆を対象読者と想定した。まさにそれ故にこそ、雑誌名として「山と溪谷」の使用を田部に直接請うて、快諾を得たのだ。

創刊号巻頭に掲げた「信条」に川崎は書いている——〈発表機関を持ち合わせぬ多くの真面目な人々の研鑽〉の場とし、〈正しきアルピニズムを認識〉し、〈ヤブ山〉〈高峻山岳〉のみを山だとする〈小児病患者〉は排する、と。

だが、第3号まで、雑誌のイメージを決定づける巻頭に、早稲田山岳部OBによる日本山岳会批判が際だつ。それは、大学山岳部の若々しく真摯な活動に向き合わぬ保守性に向けられる。その限りでは、若い登山家から一定の共鳴を獲得できたろう。が、激烈な言辞を投げつけて対象の人びとを激怒させ、頑なな態度に追い込み、また読者を辟易させたりもした。信条や指向を共有し、強力な主張を繰り返す同人誌的な、一種の偏狭性さえ感じさせる。少なくとも商業雑誌がとる方策ではなかろう。

いまひとつ、創刊号巻頭論稿3本目、小笠原勇八「一月の前穂高岳・奥穂高岳」について。小笠原は、自分をひとりの山岳スキーヤーと見立てて記すとし、早稲田山岳部の行を淡々と綴る。が実は、慶応義塾山岳部との奥穂高岳厳冬期初登頂を競う山行だったのだが、慶応に先を越され、穂高小屋では凍傷の介抱を受けたりしていた。早稲田が先陣を切り、創刊号冒頭を飾る企画の変質ではなかろうか。

このような早稲田がらみの論稿が際立つせいか、川崎独力でよくぞここまでと感心させられる丹念な誌面作りの印象が相対的に薄まっていた。が、第3号で大胆な「秩父特輯」を組んで田部色を強め、編集は様変わりを見せ始める。さらに第4号では、多様な立場の登山家を集めた座談会を掲載し、早稲田一辺倒を脱した。田部の著書から誌名を譲り受けた想念へ向けて、編集方針は大きく転換した。

川崎は、編集面から広範な読者に受け入れられる「大衆路線」に留意しただけではない。それは、「信条」に記した〈徹底的な廉価で〉を実現し、維持する経済的基盤づくり——「広告重視」である。雑誌の誌面を広告媒体として売り、生産コストを賄うことによって雑誌の売価を低くする方策を強力に進めた。川崎にあっては、魅力的な誌面づくりと広告集めは、『山と溪谷』誌の製作・発行の両輪であった。この方針は現在も維持され、広告が編集と組む多様な誌面づくりが行なわれている。

『山と溪谷』の拠りどころは、登山大衆の状況に軸足を置きながら、アルピニズムに則る先鋭的な活動状況にも的確に目配りする、にあるだろう。
だが、ひと口に「登山大衆の状況」といっても、当然、時代によって異なり、88年間一様であろうはずがない。

それは、政治や経済の状況に左右されるだけでなく、雇用や生活、交通や情報、教育や文化、風潮まで含めて、社会の有り様も無視できない。たとえば、登山口への交通手段が夜行列車だった時代と、マイカーや新幹線の時代、また、知識・情報の入手が雑誌・書籍など活字中心だった世代と、スマホなどデジタル機器中心に育った世代とは明らかに異なろう。

にもかかわらず、『山と溪谷』は「登山大衆の状況」を捉え続けてきた。それを可能ならしめた因は、状況把握の能力を維持してきたというよりは、編集主体が、よかれあしかれ「登山大衆の状況」そのものを具え続けたから、と考えるほうが自然だろう。

山と溪谷』第3号の表紙(1930年9月刊)
山と溪谷』第3号の表紙(1930年9月刊)

『山と溪谷』2018年8月号/通巻1000号より抜粋)

プロフィール

布川欣一(ぬのかわ・きんいち)

1932年生まれ。登山史研究家。普遍的な史観をもった日本登山史を『山と溪谷』などに執筆している。著書に『山道具が語る日本登山史』『目で見る日本登山史』など。近著に『明解日本登山史』『山岳名著読書ノート』(いずれもヤマケイ新書)。

雑誌『山と溪谷』とは

2018年に通巻1000号を迎えた雑誌『山と溪谷』。現存する最古の登山雑誌の誕生や歴史、現在までの変遷を紹介します。

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