埋没から3時間1分。ついに救出! 北アルプス・白馬乗鞍岳裏天狗の雪崩事故③
2007年から2021年まで、全国で起きた雪崩事故を検証、最新の事例ごとに時系列で展開したノンフィクション『証言 雪崩遭難』(山と溪谷社)より、「2020年2月28日 北アルプス・白馬乗鞍岳裏天狗の雪崩事故 スノーボーダーが雪崩に埋没、3時間1分後に無事救出された事例」を抜粋して紹介。
文=阿部幹雄
北アルプス・白馬乗鞍岳裏天狗の雪崩事故③
14時31分、捜索終了時間の決定
雪崩の現場から街へ帰るには、約3時間かかる。稜線までの登り返しに1時間強。そこからスキー場に戻るのに1時間弱。スキー場を下るのに30分から40分。その日の日没時間は17時半ころ。検定員の黒田が、下山開始を雪崩発生から3時間5分後の14時45分と決定した。翌日の捜索は警察や遭対協に任せるしかない。
翌日の捜索のため、デブリ範囲、捜索が終了した範囲に目印を設置するよう指示が出された。
佐々木は、友人である西山の捜索にもっと粘ってほしいと思った。スラロームプロービングによる捜索ができていないのは、幅15メートル、長さ50メートルの範囲だった。20分もあれば捜索は終わるだろう。
渋澤も捜索終了時間が早すぎると思った。まだ、西山が生きている可能性があるはずだ。
「雪崩を目撃したときから、自分にできることを淡々とやってきた。検定員から指示された以上、下山しなければならない。明日の捜索のために最後まで粘り強く、やりきろうと思いました」
渋澤のアウタージャケットのポケットにピンクテープが、偶然入っていた。そのピンクテープはルートの目印として木の枝などに付けられ、山に放置されていたものだ。登山者が勝手に取り付けたピンクテープは道迷いの原因になり、〝山のゴミ″でもある。渋澤は、ピンクテープが目につくと回収しているのだという。
捜索終了時間が決定されたころ、10名の外国人パーティが現場にやってきた。彼らはエヴァーグリーン・アウトドアセンター(白馬村)のAvSAR(アブサー)講習のツアーに参加した外国人ガイドだった。捜索に協力したいと申し出があった。
14時41分、西山発見
14時45分に捜索を終了、下山することが決まった。しかし、高田は西山の生存をあきらめて下山したくなかった。下山するぎりぎりまで捜索をしたい。ほかのガイドたちがデブリの範囲、捜索した範囲、捜索していない範囲にピンクテープを木の枝に結びつけた標識を設置している。その間、高田、澁谷、双樹、渋澤らが捜索を続行。佐々木が見守った。
高田のプローブが何か硬い物に当たり、〝カツン、カツン″と音を立てた。また、ダケカンバに当たったかもしれないと高田は懐疑的だった。
「また木ですよね。外れですよね」
同意を求めるような目で佐々木を見た。〝カツン″という音は佐々木にも聞こえていた。
「そこだ、掘れ!」
「硬い板にぶつかった音だ。そこだ!」
佐々木はスノーボードの板に当たったと確信した。
佐々木に「掘れ」と言われた高田は、はっとした。ヒットした埋没深を確認すると50センチだった。50センチならすぐ掘れる。佐々木、高田が先頭に立ち、渋澤ら3名が後ろに1列に並び、前の人が掘った雪を後方に送るスノー・ベルトコンベヤ・シャベリングを開始した。
西山が雪崩に埋没してから、3時間1分が過ぎていた。
14時43分、生存確認
掘ると最初にスノーボードの板が現れた。西山が埋没しているのは確実だ。頭部の位置を推測し、佐々木が猛烈な勢いで掘った。掘っているとポロッと硬い雪のブロックが取れ、空間が現れた。西山の顔が見えた。
「顔が出たぞ!」
佐々木が叫んだ。西山の顔にチアノーゼが現れ、土色をしていた。佐々木には生きている人間の顔色に見えた。しかし、西山に意識はなく、反応がない。
「あっ、エアポケットがある。助かるかもしれない」
体の掘り出しに取りかかった。
「うー、うー」
西山が苦しそうな声を出した。いちばん近くにいた佐々木に聞こえた。口から、泡を吹いたような“よだれ”が溢れていた。
「生きているぞ!生きているぞ!」
周囲の者に佐々木が叫ぶ。
佐々木のすぐ後ろで掘っていた渋澤も西山の顔を見た。
「ほんとうに真っ黒な顔色でした。意識もなかった。正直、生きていると思わなかった」
意識がなく、どす黒い顔の西山。だが、佐々木は生きていると判断している。
「勇君、助かったぞ!」
西山に声をかけていた。佐々木が生きていると判断しているなら、生きているにちがいない。渋澤は全力でシャベリングを続けた。すると西山が苦しそうに顔をゆがめるのが見えた。
「生きている!」
渋澤も生存を確信した。
西山は座っているような体勢で埋まっていた。スノーボードの一部が深い所に埋まっていたため、西山を救出するにはかなり深く掘る必要があった。
澁谷が西山の顔を覗き込むと、目に生命感があるように見えた。
「この人、助かっている。勇君、すげーなー」
西山の目を見た澁谷は、めちゃくちゃうれしかった。佐々木は澁谷に励ましの声をかけ続けるよう指示をした。
「勇君、出られるよ」
「大丈夫だよ」
「助かったぞ」
「もう少しで、体を全部出してあげるよ」
プローブで捜索中、悲観的なことばかりを考えていた澁谷。
「休憩しても落ち着かない。休憩なんかしないで早く捜したい。焦るばかりでした。結婚間もない奥さんに申し訳ない。もし勇君が死んだら、雪山のスノーボードはもうやめようと思いました」
頭部が出たとき、すごく弱い呼吸だった。呼吸空間が広がると、少しずつ、少しずつ強く息をしはじめた。
「勇君、助けるぞ」
佐々木が呼びかける。
「うー、うー」
と反応するようになった。
「これは助かるぞ」
ザックをなかなか外せなかったが、佐々木がショルダーストラップをナイフで切断して外した。スノーボードも外せた。掘りはじめてから7、8分、西山の全身を掘り出すことができた。
14時43分、長野県警へ通報。
「生きています。すぐ病院へ搬送してください。ピックアップをお願いします」
燃料補給のため松本空港へ帰ろうとしていた県警ヘリが、現場へ戻ることになった。
保温と加温
掘り出しの途中で佐々木が指示を出す。
1.雪中から救出した西山を寝かせるための平らな場所を作れ。
2.保温するためのマット、ツエルト、防寒着を準備しろ。
3.加温するためソフトボトルで湯たんぽを作れ。
誰が、何を担当するのか。いっさい指示はなかった。外国人10名は全員がガイド、雪崩の捜索救助の訓練を受けていた。言葉が通じなくとも、日本人ガイドも外国人ガイドもそれぞれが自分の役割を理解し、実行した。
全身を掘り出した。ツエルトを広げた場所まで、佐々木の号令で日本人ガイドと外国人ガイドが協力して動かした。
「スリー、ツー、ワン!」
このとき、澁谷は両足を抱え、高く持ち上げてしまう。冷えた血液が両足から一気に心臓に流れ、ショック症状を起こす危険性があった。低体温症になっている雪崩遭難者にしてはいけない行為だ。救助の訓練を受けていない澁谷は低体温症の知識がない。
「助けたい」という強い思いがそうさせた。幸い、西山にショック症状は出なかった。
西山をツエルトで包んだ。高田が、みんなから集めた防寒着で覆う。双樹が外国人ガイドから提供されたお湯で湯たんぽを作った。一人のガイドが湯たんぽを3個、両脇下、腹部に差し入れた。
「もう大丈夫だからね。帰れるんだからね」
佐々木が西山に語りかけた。
15時、長野県警ヘリに収容
埋没してから3時間1分、西山勇はスラロームプロービンで発見救出された。これが世界で初めてのスラロームプロービングによる生存救出事例になった。15時、長野県警ヘリに収容され、信州大学附属病院へ搬送するため飛び去った。
捜索の指揮を執った高田が述懐する。
「助かる可能性があるので必死でした。今できる作業をしたり、指示をしたり、西山さんが助かることを祈るというか、助けたいという気持ちでした。正直、僕にとってはすごくよい経験でした。なぜかというと雪崩の捜索救助のトレーニングを欠かさずやっていました。僕が思っていた以上に指示ができたし、動けました。トレーニングをやっていたからだと思う。あとは助けてあげたいという気持ちが前面に出ていた。だからそういった動きができたのだと思います。最後までスラロームプロービングしていたなかに澁谷さんがいた。澁谷さんから、友だちを助けたいという気持ちをすごく感じていました。僕も心から西山さんが助かってよかったと思いました」
高田は長野県警ヘリが飛び去るのを見届けた。
「これで西山さんが助かったと思いました。かなり緊張がほぐれてうれしかった」
高田は澁谷を抱きしめた。
「お疲れさま」
高田の目に、涙が滲んだ。
体温30度C、西山の覚醒
西山勇が搬送されたのは信州大学附属病院。目を開けるとたくさんの白衣を着た人に囲まれていた。みんなすごく忙しそうに動き回っていた。着衣ははさみで切り裂かれ、真っ裸。たくさんの管が体に繋がれている。
「勇さんですよね」
親しげに白衣の男性が話しかけてきた。
「えっ?」
確かにどこかで見たことがある顔だった。
「あなたを知っていますよ。何回かいっしょに滑ったことがあります。雪崩事故で今、ヘリで運ばれて来たんですよ」
西山の意識はずっとなかった。おぼろげに意識を失ってからの記憶が浮かんでくる。
大勢の人が掘り出してくれるシャベルの音、ワァー、ワァーとあっちだこっちだと言っている声、なんとなく助けてもらっているような安心感を無意識だが感じていた。次は轟音。轟音はヘリの音だったのか。
朦朧としながら記憶をたどっているとガタガタ、ガタガタ、体の痙攣が始まった。全身が非常に激しく痙攣した。白衣の男性が主治医だった。
「運び込まれてきたとき、勇さんの体温は30度Cでした。あと1度か2度下がっていたら脳がやられ、やばかったですよ。今、体温が戻っているので痙攣するのです」
医師たちは西山の全身を温かいエアバッグで包み、加温をはじめた。
全身の痙攣は、20分ほど続いた。
「勇さん、埋まっているときに息をしていましたか?」
「えっ? 息をしていたから今、生きているんですよね」
「血中の二酸化炭素濃度が異常に高いです。呼吸をしていたけど意識を失い、眠っているような状態だったのでしょうね。助かったのは、ギリギリの状態でした」
17時ころ、妻が友人の車に乗せてもらい病院に駆けつけた。3時間も雪崩に埋まっているから、ダメだろう。みんな西山が死んでいると思っていた。ところが病院に着いたら、意識が戻っていると知らされた。
「なんだよー、なんだよー」
友人たちが口々に言いながら、妻といっしょに病室に入ってきた。
「みんな、ごめんね」
「よかった、よかった。よかった……」
妻が額から汗を吹き出しながら、しきりと「よかった」と繰り返す。しゃべればしゃべるほど汗が噴き出していた。妻はこの事態に驚愕し、そうとう混乱していたのだろう。
西山は、妻や友人たちにしっかり対応をしないといけないと思い一生懸命に話をした。でも、とても不思議な感覚だった。白馬乗鞍岳裏天狗から信大病院へ、ワープをしてきたみたいだと思った。しばらく状況を理解できず、わけがわからなかったという。
夜になり、澁谷から見舞いの電話がかかってきた。
「勇君、雪崩トランシーバーのスイッチを入れていた?」
「えっ、入れていたはずだ」
澁谷から、雪崩トランシーバーの電源が入っていなかったと教えられた。
西山は「入れていた」と言い張った。駐車場で雪崩トランシーバの電源を入れ、発信チェックをしてから体に装着した記憶があったからだ。でも、「電池がもったいないと電源を切った」という記憶がよみがえる。滑る前に電源を入れたか思い出せない。澁谷と互いにチェックした記憶を思い出せなかった。
冷や汗が出てきた。
3時間1分、雪崩に埋没したのは、山へ行く気持ちが整っていなかった自分が山に怒られたからにちがいない。
西山は、自分の失敗に呆然とした。
救助の教訓
国際山岳ガイド、佐々木大輔に尋ねた。
――長野県警ヘリに収容される西山さんを見てどう思いましたか?
「県警のヘリに収容されるのを見上げたとき、悲しい思いをしなくてよかったと心底、思いました。やはり下山してから、仲間たち、仲間は勇君と共通の友だちだったし、家族に会うのが怖かった。悲しいことになるのだろうなという思いが、捜索・救助をしているときにずっとあった。そこがなくなって、ともかく下山してから家族、仲間と笑ってこれからもずっと付き合いが続けられるという安心感があったと思います。もちろん勇君が助かったというのもありますけど、家族と仲間に対して勇君を救うことができたのは僕にとってよかったことです。(電源の入れ忘れは)ギャグじゃなくて、ほんとうに運命的です(笑)」
――捜索救助の方法で、今後に生かしたいことがありますか?
「同じような事故に遭ったときに考える選択肢としてひとつ入れておきたいのは、時間という単位で区切って捜索範囲を決めました。実はあと20分くらい捜索を続けたら、デブリ範囲のすべてを捜索できるくらいまで、デブリ末端からデブリ上端までスラロームプロービングができていた。あと20分捜索すれば、われわれはベストを尽くしたことになる。もしあと20分捜索をして見つからなかったとしても、たとえ勇君が亡くなったとしても、捜索するわれわれの心的外傷後ストレス障害(PTSD)を避けることができる。つまり、捜索のためにベストを尽くしたわけですから。埋没可能性がある範囲を捜索しきれなかったために勇君を助けることができなかったと、自分を責める気持ち抱くことを回避できた。
そういった心的外傷後ストレス障害(PTSD)を避けるためには、選択肢としてあと少しの時間で発見できる可能性があるなら、すべての埋没可能性範囲を捜索できるということを捜索の指揮をとる人間が把握し、その上で捜索をやめる、やめないを判断してもいい。捜索救助に当たる人たちのPTSDのことまで考慮して判断すべきです。そこまでを含め、捜索を指揮する人、そこに人を投入する責任がある人は、考えていろいろなことを判断しなければならない。ただその前に自分たちの安全も大事なこと。そのことを忘れてはいけない。
今回の僕の反省点じゃないですが、次に生かしたいことです」
私は佐々木の意見に賛成だ。人を助けることができなかったら、その人は一生自分を責め続ける。私はそれを中国の高峰で体験し、一生苦しんでいる。
私は佐々木大輔とともに第51次日本南極地域観測隊セール・ロンダーネ山地地学調査隊のフィールドアシスタントとして3カ月間テント生活を過ごし、スノーモービルでクレバスだらけの氷河を走り、研究者の調査活動を支えた。私たちの任務は、研究者を誰一人ケガをさせず、一人も失わないで日本へ連れて帰ることだった。
私が南極でもっとも心がけたことは、事故が起きたとき、隊員に後悔をさせず、ベストを尽くしたと思わせることだった。たとえ隊員の誰かが死んだとしても誰一人、後悔をさせたくはなかった。
証言 雪崩遭難
著 | 阿部幹雄 |
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解説 | 尾関俊浩 |
発行 | 山と溪谷社 |
価格 | 1,870円(税込) |
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プロフィール
阿部幹雄(あべ・みきお)
1953年、愛媛県松山市生まれ。北海道大学工学部卒。中国の高峰で8人が滑落死する遭難(1981)で生き残り、長年にわたり遺体の捜索収容を行なってきた。新潮社の写真週刊誌『FOCUS』の契約記者としてソ連崩壊や自然を題材にした連載を掲載。2003年から北海道テレビ放送HTBの契約記者。第49、50、51次南極観測隊隊員(2007~2010)。山岳地帯でテント生活をする地学調査隊のフィールドアシスタントとして研究者を支え、安全管理を担当した。仕事のかたわら、雪崩教育や山岳救助に関するボランティア活動を行なっている。 雪崩事故防止研究会代表、日本雪氷学会雪氷災害調査チーム前代表。主な著書は『生と死のミニャ・コンガ』『ドキュメント雪崩遭難』『那須雪崩事故の真相』(いずれも山と溪谷社)など多数。
証言 雪崩遭難
多数の遭難当事者から多角的に取材、彼らの証言から得られた雪崩事故の実像とは――。