行程・コース
天候
曇り
登山口へのアクセス
電車
その他:
往路:目黒→山の手線→新宿→中央線→立川→青梅線→青梅→〃→奥多摩→西東京バス→東日原
復路:西武秩父→西武秩父線→飯能→西武池袋線快速急行横浜中華街行→渋谷→東急東横線→学芸大学
この登山記録の行程
東日原バス停610m7:51→日原丹生神社7:59→ヨコズス尾根入口8:02→1000m地点8:36→横篶山1289m9:16→一杯水避難小屋1430m9:42→一杯水水場9:47→仙元峠分岐10:17→蕎麦粒山1472.8m10:34~40→仙元峠1444m10:52~11:00→大楢11:31→広河原分岐11:57→新秩父線57号鉄塔910m12:07~20→新秩父線58号鉄塔880m12:23→843.5m広河原三等三角点12:29→新秩父線59号鉄塔760m12:38→新秩父線60号鉄塔670m12:46~13:00→浦山大日堂13:12→浦山大日堂バス停13:21
合計5時間30分
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
5月22日(土)は雨だと思っていたら予報が晴れになったので、奥多摩の残りの日原から仙元峠を越えて秩父(浦山大日堂)に行く古道を歩いてみました。
日原は、室町時代に戦乱を避けて、武州忍領原島村(現熊谷市)から移住して来た武蔵七党の1つ丹党の原島丹次郎友一・丹三郎友連の兄弟の兄の丹次郎によって開拓されたのが始まりとされています。弟の丹三郎は古里駅の近くの丹三郎集落や小丹波集落を開拓して住み着きました。原島氏は当初は、多摩川上流域を治めていた三田氏に隷属していましたが、三田氏が小田原北条氏に滅ぼされた後は、北条氏の傘下に入り、北条氏の滅亡により、帰農します。
日原の名前の由来は、バス停に名前が残る一原(いちはら=イッパラ)から来たという説や、原島氏のが丹党に属していたことから、丹を「ニ」と読み丹原(ニハラ)がニッパラになったという説、それからただ単に新しい開拓地だったので、新原がニッパラになったといった説もありますが、いずれにせよ「日」という漢字が宛てられたのは、日原鍾乳洞が大日如来の聖地として参拝者を集めるようになったためと言われています。
ちなみに、丹次郎=炭治郎、日原=日(火)の呼吸なので「炭治郎が鬼退治の後、帰農して作った村」ということにして、『鬼滅の刃』の聖地として、雲取山に負けずに売り出したら観光客も集まると思うんですけどねー。
日原の丹次郎の一族は、孫にあたる右源太友兼の時から日原鍾乳洞の一石山大権現の社家となり、この社家は後に、右京(原島本家)と淡路(本家から隠居し、後に独立)を名乗る二家に分かれ、江戸時代右京家は名主役を、又、淡路家は年寄役を勤め、社家職と村役の職は代々世襲により明冶の初めまで続きます。日原鍾乳洞は中世以降、修験道の聖地でしたが、江戸時代に奥多摩が徳川の天領になると上野の東叡山寛永寺の配下に入ります。
日原から氷川に下る道は非常な難路だったため、徳川が江戸に幕府を開く前は、日原はもっぱら秩父との交易に頼っていたのですが、奥多摩が江戸幕府の直轄地になると氷川(奥多摩駅)から街道がつくられ(それでも難路だったらしい)、日原の特産品であった白箸が江戸で流行したり、日原鍾乳洞も江戸近郊の聖地(観光地)として参拝者を集めるようになっていきます。
奥多摩は江戸時代からすでに今の奥多摩みたいだったわけですね。実際、江戸時代の多摩地区の観光案内である『武蔵名勝図会』(文政9年/1826)では、奥多摩は、たいした歴史もない新田が広がるだけの中央線沿線よりも遥かに詳しく書かれています。
聖地・日原鍾乳洞へは氷川からだけ参拝者が来ていたわけではなく、今日これから行く仙元峠を越えて秩父・飯能方面からも参拝者が来ていました。仙元峠は名前の通り江戸時代に流行した富士講の秩父方面からの通り道だったのですが、その途中で原島家に一泊して日原鍾乳洞と一石神社に参拝した後、小河内に下って富士山に向かうというのがルートとして定着していたようです。足に自信のない人や時間のない人は、仙元峠や日原鍾乳洞で引き返すというのもあったようです。
奥多摩駅からバスに乗り、終点の「東日原」で降りたら、まず丹党・原島家の氏神である「日原丹生神社」に向かいます。日原鍾乳洞にも行きたいのですが、今日はスタートが8時になってしまったのに加え、帰りの浦山大日堂のバスが14時を逃すと16時まで無いので、安全策をとって見送りとします。神社に行く途中にある「静和旅館」は一石山大権現の社家だった「淡路家」の末裔が経営している旅館で、上に原島本家の邸宅もあったそうなのですが、今は取り壊されてなくなってしまったそうです。
「日原丹生神社」は、享禄3年(1530)原島丹次郎友一・丹三郎友連によって創建された神社で、祭神は丹生都比売命、天疎向津比売命、弥都波能比売命、宝暦9年(1759)高野山の丹生都比売神社の形式に倣って造られた社殿は、狩場神社を併設していて、例大祭はやぶさめ祭は山村らしい猟師の祭礼で、村内の猟師たちが猟犬をつれて参拝したということです。
日原丹生神社から静和旅館まで戻り、「ヨコズス尾根」に取りつきます。ヨコスズ尾根は、スズは篶→篠竹という竹と笹の中間のような竹のが生い茂る尾根という意味だそうで、最初しばらく急登が続きますが、標高1000mあたりから比較的なだらかで登りやすい道となります。なだらかな道は滝入ノ峰と横篶山(よこすずやま)を巻いて行くのですが、今回は行きやすい横篶山1289mだけ寄ってみました。山頂には手書きのプレートがありました。
ヨコズス尾根を登り切ったところが「一杯水避難小屋」です。ここまで約1時40分かかりました。大人数が泊まれる広い避難小屋で、でも真冬に1人で泊まると滅茶苦茶寒いので、少人数の場合は酉谷山の避難小屋に行った方が良いかも知れません。ただあそこは狭いので満員で泊まれないことも…。
一杯水避難小屋から右へ水源巡視路を行くと、すぐあるのが「一杯水の水場」です。ここはしょっちゅう涸れているのですが、今回は、関東の梅雨入間近で今週はずっと雨が悪かったので、少量ですが水が出が出ていました。
そのまま歩きやすい水源巡視路を東へ進むとと30分強で仙元峠山頂分岐に到着します。ここを登れば仙元峠なのですが、今日はマトモな山に登っていないので、この先きの「蕎麦粒山」に寄って行きます。
「蕎麦粒山」1472.8mは、山頂に火打石の露岩のある山で、昔は展望が無かったのですが、久しぶりに登ったら東側が刈り払われていました。たぶん東京都心方面が見えるのだと思います。
蕎麦粒山で少し休憩をしたら、もと来た方に戻って、「仙元峠」に向かいます。この峠は山と山の鞍部にあるのではなく、1440mのピークにあり、山頂には大正時代に浦山の人たちによって建てられた浅間神社の石祠があります。
日原からヨコズス尾根で一杯水に登り、仙元峠を越えて秩父に向かう道は、戦国時代に「秩父道」と呼ばれていました。この道は秩父方面から富士山や日原鍾乳洞へ向かう巡礼道でもありました。
仙元峠で11時まで休憩したら、いよいよ北側の仙元尾根を下って浦山大日堂を目指します。この道は、最初の200mぐらいは急で踏み跡も薄く神経を使う下りが続きますが、それを過ぎると傾斜もゆるみ徐々に歩きやすくなってきます。そして1167mピークの手前の明治神宮の所有林の標識のある「大楢」という場所に着きます。ここで尾根の右(東)側に下ると、林業の作業道のようなさらに良い傾斜の緩やかな道に降り立ち、この道を最初の遅れを取り戻そうと小走りに進んで行くと、気をつけていないとほぼ誰もわからない「広河原分岐」があり、その先で「新秩父線57号」の送電線鉄塔の下に飛び出します。
ここで時間を確認したら、バスの時間の1時間以上前に着いてしまいそうだったので、とりあえず休憩をとって、あとはダラダラモードで下りることにしました。
新秩父線57号鉄塔から先は送電線巡視路に入り、58号、59号、60号と送電線鉄塔が4本続くことになります。途中に、まあ見逃してもどうってことないのですが、「843.5mの広河原三等三角点」なてのも出てきます。そして最後の「新秩父線60号鉄塔」で再び時間潰しの休憩をとり浦山大日堂を目指します。60号から先の道は再び急坂になり、滑りやすい半分壊れた木の階段なども出てきて、またちょっと時間がかかります。
そして13時12分に「浦山大日堂」に到着しました。仙元峠からの時間は、休憩を除いて2時間みておけば充分だと思います。浦山大日堂は大日如来の聖地である日原鍾乳洞への登り口であることを示すために造られたお堂のようなのですが、昭和50年に立てられた大日堂記念碑には「茲の地に大日如来尊の觀請されたのは大平年代末、今を去る事四百五十余年前の初秋、麻衣藤杖翁形の丹生明神の仙元越えに依ると伝えられる。後享禄元(1528)年秋十月、知々夫大宮郷廣見寺四世大雲宗守禅師が石雲山昌安寺を開山。天文二(1533)年秋の或夜丑三刻、禅師の夢枕に丹生權現立ち現われ宇宙の大中心に位さるゝ最高最善最美最智全能の理念佛大日尊の實相を説かれて帰依する衆生の壽命延伸業運隆昌愛縁和合子孫繁栄悪霊退散病難消除の諸徳に言及され更に…」と、わけのわかんないことが書かれているのですが、浦山村には長尾景春の乱において丹党原島氏が景春を支持して戦に敗れ、浦山に滞在した後にそこから峰を越えて奥多摩の日原へと落ち延びたという伝承が伝わっているので、その際に持ち込まれた「丹生神社」が大日堂の元になっているのかもしれません。浦山村には他にも、往古石間の戦に敗れた落武者が亡命して切り開いたという話や、平将門が敗れた後にその一族が居住していたという伝説も残っています。浦山は前後を高い山に囲まれ隠れ棲むには最適の場所なのですが、鳥首峠を越えれば名郷まで2~3時間で行けそうなので、見た目よりも辺鄙な場所ではないのかもしれません。
浦山大日堂バス停を確認し帰り準備を終えたら、多少時間余ったので、「渓流荘」という100円で入浴可能だという老人福祉施設の前まで行ってみました。平時だ下山後にここで風呂に入れるらしいのですが、コロナのこの時期に行くのはさすがにマズい場所だという気がしたので、写真を撮るだけにします。
浦山大日堂からの西武秩父駅までは秩父市営バス「ぬくもり号」が本数は少ないですが走っています。料金は西武秩父駅前まで310円です。ミニバンを改造したバスなのでICカードは使えません。浦山大日堂周辺には商店も自動販売機も無いので、家を出る時にお金を準備しておく必要があります。
そして西武秩父駅に到着。駅併設の「祭の湯」は、時期的に観光地ど真ん中ということもあり、そこいらの日帰り温泉と違って意識の高い面倒臭そうな人が多そうな気がしたので、今日は見送ることにして、仲見世の跡地に出来たフードコートで秩父名物「わらじカツ丼」だけ食べて帰りました。ビールは時間がなかったので電車の中で。
市営バス「ぬくもり号」(浦山線)時刻表(土・休日) /秩父市
http://www.city.chichibu.lg.jp/2064.html
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