【動物解剖学者だけが知っている】巨大なクジラの骨格標本づくり、驚きの裏側

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日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』は、海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発売たちまち重版で好評の本書から、内容の一部を公開します。第5回は、博物館の命、標本づくりの裏話。

 

イラスト=芦野公平

 

標本は博物館の命

国立の研究博物館が掲げる主な使命は、「標本収集」「研究」「教育普及」の三つである。このうち、最も根幹となるのが「標本収集」だ。

標本がなければ、「研究」や「教育普及」を行うこともできない。たとえるなら、食材のないレストラン、生徒のいない学校である。博物館にとって標本こそ命といえる。

ところが、海の哺乳類については、標本を集めることがきわめて難しい。必要な調査・研究を目的とした場合であっても、人間の都合で捕獲したり採取したりすることはとても困難なのだ。

そのため、現在では、基本的に海岸に打ち上がる個体(ストランディング個体)を、標本や研究に活用することが、世界の共通認識となっている。だからこそ、国内のどこかでクジラやイルカなどの死体がストランディングしたという情報が入ると、すべての作業を投げ打って、現場に駆けつける必要がある。

そもそも、「そんなにたくさん必要なの?」と疑問に思う人もいるだろう。普段からよく、1種類の動物につき、数体の標本で十分ではないのか、という質問をいただく。もしそうなら、私の仕事も相当ラクになる。しかし、残念ながら数体レベルでは、研究対象としてはとても足りない。

1種類の動物のある特徴を知るには、最低30 体は研究や調査に供する必要があるといわれている。

その種を特徴づける肋骨(ろっこつ)や歯の数、頭骨の形を数値化した平均値、子どもを産む年齢、寿命、大人の平均的な体長といった基本情報の他、その種がどのような生き方をし、暮らしているのか、他の生物との共通性や違いはどのようなところにあるのかなどを理解するうえでも、情報は多ければ多いほど正確性を増すというものだ。

 

「鯨骨スープ」の臭いにまみれる

では、骨格標本はどうやって作るのか?
骨格標本づくりは「骨を煮る」ことで出来上がる、しごく単純な工程である。

煮る前に、骨格から筋肉をできるだけ取り除き、あとは水を張った容器で、ひたすら煮続けるのである。煮る容器は、長時間加熱できるものであれば何でも構わない。豚骨スープをつくる寸胴でも、シチューを煮るスロークッカーでも大丈夫だ。

しかしながら、ちょっと自慢をすると、じつは科学博物館には、海の哺乳類の骨格を煮るための秘密兵器がある。特注の晒骨(せいこつ)機という代物だ。

晒骨機は、もともと医学部で人間の骨格標本を作製するために開発された装置であるらしい。そのため、普通の加熱機器とは違って温度調整や蓋(ふた)の開閉が自動制御できる。しかも、科博の晒骨機は、体長5メートル前後のオウギハクジラの骨まで煮ることができるように設計されているのが特徴だ。

5年前に、私の前任である山田格(ただす)先生の尽力で新規1台を導入し、現在は1台は陸の哺乳類用、もう1台は海の哺乳類用として使用している。
そんな貴重な機器だが、私たちは普段〝なべ(鍋)〞と呼んでいる。

さて、しごく簡単な骨を煮るという方法だが、海の哺乳類の場合は少し工夫が必要だ。最初は人肌(37℃前後)で1〜2週間煮て、動物性タンパク質を分解する。その後、今度は油脂成分を抜くために約60℃前後に温度を上げ、さらに1〜2週間煮る。

つまり、骨を煮る作業だけで、最短2週間かかる。

海の哺乳類の骨は、骨の内部に海綿質(スポンジのようにやわらかい網目状の組織)が多く、小さな穴がたくさん存在する。その穴に油脂成分が大量に溜まっているため、時間をかけて煮込み、油脂成分を骨からしっかり取り除くことが、骨格標本の〝質〞を高める最大の決め手となる。

油脂成分が十分に抜けたら、煮汁を捨てて骨を取り出し、最後に高圧温水洗浄機やブラシを使って洗浄する。細かいところに残っている筋肉や油脂を取り除くのである。

私はこの骨洗い作業が大好きだ。洗っているうちに、骨の表面が見る見るキレイになり、淡黄色からクリーム色に変わって、本来の美しい骨肌を呈してくる。それがとても嬉しく、芸術的な美しささえ感じるのである。

同僚にいわせると、高圧温水洗浄機を使っているときの私の姿は、ホースの扱い方といい、腰の入れ方といい、あまりにもさまになっていて「高圧温水洗浄機専属のCMモデルになれる!」という。そんな言葉にも乗せられて、最後の洗浄部分は率先していつも引き受けるのである。

洗い終わった骨は、常温で乾燥(風乾)させることにより、さらにその質感が増して美しい仕上がりとなる。最近は、骨格標本の見た目の美しさやフォルムの優雅さが、美術的観点からも注目されていて、美術館や芸術関係の出版社から貸し出しや撮影の依頼をいただくこともある。

骨格標本づくりは、晒骨機で煮る以外にも、虫(カツオブシムシなど)に軟部(なんぶ)組織を食べてもらう方法や、適切な場所に年単位で埋設し、再発掘する方法などもある。

ところで、骨格標本をつくるときに「骨を煮込む」と聞いて、ラーメンの豚骨スープを思い浮かべた人も多いだろう。

スタッフの間でも、新鮮なクジラの個体を煮た煮汁であれば、鯨骨ラーメンがつくれるかも、と冗談交じりに話すことがあるが、新鮮個体であっても、そのニオイを嗅いだ限りでは、決して美味なスープとは思えない。

まして、腐敗個体の煮汁は、冗談でもスープの話をする気が起こらないほど、凄まじいニオイがする。それはもう、絶対に口にしてはいけないことを警告するニオイである。

骨格標本づくりをした日は、頭のてっぺんから足の先まで、この煮汁のニオイまみれになる。必ずシャワーを浴びないと、通常の生活には戻れない。

 

※本記事は『海獣学者、クジラを解剖する。』を一部掲載したものです。

 

『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』

日本一クジラを解剖してきた研究者が、七転八倒の毎日とともに綴る科学エッセイ


『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』
著: 田島 木綿子
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【著者略歴】
田島 木綿子(たじま・ゆうこ)

国立科学博物館動物研究部研究員。 獣医。日本獣医畜産大学獣医学科卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻にて博士課程修了。 大学院での特定研究員を経て2005年、テキサス大学および、カリフォルニアのMarine mammals centerにて病理学を学び、 2006年から国立科学博物館動物研究部に所属。 博物館業務に携わるかたわら、海の哺乳類のストランディングの実態調査、病理解剖で世界中を飛び回っている。 雑誌の寄稿や監修の他、率直で明るいキャラクターに「世界一受けたい授業」「NHKスペシャル」などのテレビ出演や 講演の依頼も多い。

海獣学者、クジラを解剖する。

日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』が発刊された。海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発刊を記念して、内容の一部を公開します。

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