古代には「金」と同じ価値!!マッコウクジラ200頭に1つしか見つからない「龍涎香」とは?

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日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』は、海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発売たちまち重版で好評の本書から、内容の一部を公開します。第20回はクジラ由来の伝説的な香り「リュウゼンコウ」について。

 

クジラの死体を解剖調査する際は、悪臭まみれになるのだが、クジラの汚名返上のために、クジラのイイ香りに関する話をご紹介したい。

紀元前の昔から、世界各地で「龍涎香(りゅうぜんこう)/ambergris」と呼ばれるよい香りを放つ淡黄色から黒褐色の塊が珍重されてきた。海岸に落ちているその塊を見つけると、イスラム教徒は場を清める薫香に利用し、エジプト人は神への捧げものとして用いた。ユダヤ文化の聖書にも登場する。

その香りはかなり人気が高く、希少なものであったことから、金(きん)と同じ価値で流通していた時代もある。

アラビアの伝説にも、6世紀頃、海岸に打ち上げられた黒褐色の塊が、なんともいえないかぐわしい香りを放つことから、当時のペルシャ帝国の皇帝に献上されたという話が残されている。これも龍涎香であった。

当時から、麝香(じゃこう)と並ぶ最も高価な天然の香り素材の一つとされ、后シェヘラザードがペルシャ王に、千一夜かけて話した物語『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』にもしばしば登場する。

中世ヨーロッパの貴族社会では、皮手袋が流行した際、その香りづけに龍涎香が利用された。20世紀以降は、香水産業に無くてはならない香り素材となり、詳しい方ならお気づきだろうが、某有名ブランドの香水は、この龍涎香の主成分から精製されていた。

では、黒褐色の塊である龍涎香とはそもそもいったい何なのか。

最初のフリでおわかりのとおり、クジラ由来のものである。しかも、ナント、ハクジラの仲間のマッコウクジラの腸から発見される「結石」なのだ。

龍涎香の正体は、19世紀になっても不明のままであった。以後、捕鯨が盛んに行われるようになり、マッコウクジラの腸内から見つかったことで、その出所が判明したのである。なぜ、よりによって糞便がつくられる腸で、伝説になるほどよい香りの結石がつくられるのだろう。

龍涎香の主な成分は、「アンブレイン」と呼ばれる有機物質とコレステロールの代謝物である。アンブレインが多いほど高価な龍涎香とされているようだが、この物質自体に香りはない。

太陽の紫外線や、餌のイカに含まれる銅が作用して、アンブレインの構造が酸素で切断されると、初めて香り成分(ambroxan)が生み出されるという。

香水としてどのように使われるのかというと、龍涎香を5パーセント程度のアルコール溶液に浸けて低温に置き、数ヶ月間かけて熟成させる。そうすることで、香り成分(ambroxan)がより多く生成されるのだ。香りはというと独特の甘さがあって、ウッディ。ほのかにマリン調の香りも混じる。

いずれにしても、龍涎香は現在もなお伝説的な希少品である。というのも、龍涎香はこれまでマッコウクジラの腸からしか見つかっていない。しかも、マッコウクジラの腸から龍涎香が発見される確率は100頭に1頭、あるいは200頭に1頭といわれている。

現在は、マッコウクジラの捕鯨が世界的に禁止されており、新しい龍涎香を入手するには、紀元前と同様に、海岸に打ち上げられる僥倖(ぎょうこう)を待つのみである。

しかし、朗報がある。新潟大学の佐藤努先生らの最新研究で、龍涎香の主成分であるアンブレインを合成する過程がより詳細に解明されたのである。これが世の中に広く普及すれば、マリリン・モンローならずとも、私でも「寝るときは香水を数滴」みたいな生活が叶うかもしれない……。

国立科学博物館には、標本として龍涎香が数点保管されている。そのため、実物の龍涎香を見たり触ったり嗅いだりしたことがある。実際の匂いはというと、古いタンスの中のニオイとでもいおうか……。どちらかというとムスク系、または古典的なお香のニオイに近いように感じる。

展覧会などでもお披露目しているので、機会があればぜひ、ご自分でニオイを嗅いでみていただきたい。

じつは、マッコウクジラにはもう一つ大きな特徴がある。独特な形をした頭部に「脳油」と呼ばれる油脂成分が存在するのだ。この脳油を得るために、かつては格好の捕鯨対象となっていた。マッコウクジラの脳油は、食用、燃料用、薬用に至るまで、あらゆるものに活用された。

なぜマッコウクジラだけが、龍涎香と共に脳油を持ち合わせているのか、未だに解明されていない。ハクジラの中では、漫画やアニメにもよく登場し、知名度の高いマッコウクジラだが、謎多きハクジラの一種なのである。

※本記事は『海獣学者、クジラを解剖する。』を一部掲載したものです。

 

『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』

日本一クジラを解剖してきた研究者が、七転八倒の毎日とともに綴る科学エッセイ


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【著者略歴】
田島 木綿子(たじま・ゆうこ)

国立科学博物館動物研究部研究員。 獣医。日本獣医畜産大学獣医学科卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻にて博士課程修了。 大学院での特定研究員を経て2005年、テキサス大学および、カリフォルニアのMarine mammals centerにて病理学を学び、 2006年から国立科学博物館動物研究部に所属。 博物館業務に携わるかたわら、海の哺乳類のストランディングの実態調査、病理解剖で世界中を飛び回っている。 雑誌の寄稿や監修の他、率直で明るいキャラクターに「世界一受けたい授業」「NHKスペシャル」などのテレビ出演や 講演の依頼も多い。

海獣学者、クジラを解剖する。

日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』が発刊された。海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発刊を記念して、内容の一部を公開します。

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