国立科学博物館を陰で支えるすごい女性職員がいた…知られざる「レジェンド」の正体

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日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』は、海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発売たちまち重版で好評の本書から、内容の一部を公開します。第23回はとある「レジェンド」スタッフについて。

画像提供=国立科学博物館(イラスト=渡邊芳美)

 

博物館に非常勤スタッフとして通い始めてから、博物館の中ではさまざまな人が、本当にさまざまな仕事をしていることを知った。普段、一般の方たちが博物館で見かけるスタッフは、展示室の入口にいる受付の人や展示会場で解説してくれる人たちではないだろうか。

しかし、その奥の部屋や研究施設には、多くの人がさまざまな仕事を担って働いている。展示物に勝るとも劣らない魅力的な人たちだ。

科博のスタッフの中で、私が〝レジェンド〞と呼び、ずっと慕っているのが、渡邊芳美(わたなべ・よしみ)さんである。

渡邊さんは、動物研究部に所属している非常勤スタッフで、高校を卒業後、すぐに科博に就職し、40年以上にわたり多くの研究者の活動をサポートしてきた。その仕事は多岐にわたり、すべてのスキルが卓越している。

標本化の作業もその一つだ。博物館の根幹は標本である。では、標本はどうやって用意するのか。

たとえば、私の専門とする海の哺乳類の場合は、はく製を製作したり、骨格標本をつくったりする工程が、「標本化」と呼ばれる作業にあたる。私の部署では、展示するはく製の作製は専門の業者さんにお願いしているのだが、以前は博物館のスタッフが展示の標本化まですべて行っていた。

しかし現在では、標本化作業を研究や展示などそれぞれの目的に合わせて作製できる人は、博物館では激減しており、いわば〝絶滅危惧種〞である。その希少な1人が、渡邊さんなのである。

渡邊さんは、陸の無脊椎動物グループでは、節足動物の展翅(てんし)や展足作業(ハチやチョウの羽根や足を伸ばして、板に貼り付けていく作業)を行い、脊椎動物グループでは鳥類の骨格標本やはく製づくりを行っている。

標本は、あたかも自然界で生きているように、その生物の姿かたちに極力近づけることが求められるのだが、渡邊さんの技術は、まさに「神業」。研究者をうならせるほど、じつに見事なのである。渡邊さんのような標本職人を、ぜひ多くの方に知っていただきたい。

渡邊さんについて、まだ語らせていただきたい。

彼女がスゴいのは、仕事の技術を身につけるための努力を惜しまないところだ。標本化作業はもとより、絵を描く能力も卓越している。

今のように、高性能の撮影機器や プリンターが普及していなかった時代、研究者が論文を作成する際には、研究対象の生物などの絵を自分で描くのは当たり前のことだった。

かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチや、神経細胞の研究で有名なサンティアゴ・ラモン・イ・カハールなども、自分たちで研究対象をスケッチした。ダ・ヴィンチの絵はイギリスにある王室所有のウィンザー城で、今でも厳重に保管されている。

しかし、研究者の中には絵の苦手な人や、忙しくて絵を描いている時間のない人もいる。

そこで、渡邊さんは研究者をサポートするために、当時、休日返上で日本画教室に通い、絵のスキルを磨いたという。渡邊さんに絵の依頼が殺到したのはいうまでもない。

絵のレベルは完全にプロ級で、私は〝渡邊画伯〞と呼んでいる。この言葉が決して大げさでないことは、科博のミュージアムショップへ行くとわかる。ショップで販売れている科博のオリジナルグッズのうち、「世界の鯨」ポスターは渡邊さんの作品である。

渡邊さんは他にも、研究者の書籍や科博の定期刊行物の挿絵なども担当していた。誰よりも科博のすべてに通じ、難題を求められても、あらゆる作業を見事にこなしてしまう。まさに科博のレジェンドなのである。

いずれにしても、標本化などの職人仕事は、手先の器用さや、機転のよさ、応用力など、持って生まれた資質もある程度必要だが、なにより、努力を惜しまない誠実な人柄に依存するところが大きいと、渡邊さんを見ていていつも感じる。

私も大学院時代から、標本化作業に参加している。最初は右も左もわからないことばかりで、多くの先輩方にご指導いただき、今は標本職人の端くれに何とか入れてもらっている。

最初の頃、研究者と呼ばれる人たちや、事務のちょっと怖いオトナの方たちとのやりとりに戸惑っていた。そうしたときに、傍らでいつも助けてくれたのが渡邊さんだった。

標本づくりについても、一から教えていただいた。骨格標本や標本ラベルのつくり方をはじめ、骨格標本に登録番号を書くときは、墨で書くのが一番いいことも教えてくれた。

「墨は油分に強く、標本に害を及ぼす心配もない。しかも、安価で、市販品の中ではこれが一番!」

そんな細かいことまで教えてくださった。

言葉だけでなく、その背中を見て学んだことも多い。作業のノウハウだけでなく、学ぶべき知識や情報、人とのコミュニケーションの取り方、作法に至るまで、博物館での生き方を教わってきたように思う。

おそらく、渡邊さんが私に教えてくださったことは、科博の中で先輩から後輩へとずっと受け継がれてきたことなのだろう。それを次の世代に伝えていくことが、私の使命の一つでもある。

※本記事は『海獣学者、クジラを解剖する。』を一部掲載したものです。

 

『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』

日本一クジラを解剖してきた研究者が、七転八倒の毎日とともに綴る科学エッセイ


『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』
著: 田島 木綿子
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【著者略歴】
田島 木綿子(たじま・ゆうこ)

国立科学博物館動物研究部研究員。 獣医。日本獣医畜産大学獣医学科卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻にて博士課程修了。 大学院での特定研究員を経て2005年、テキサス大学および、カリフォルニアのMarine mammals centerにて病理学を学び、 2006年から国立科学博物館動物研究部に所属。 博物館業務に携わるかたわら、海の哺乳類のストランディングの実態調査、病理解剖で世界中を飛び回っている。 雑誌の寄稿や監修の他、率直で明るいキャラクターに「世界一受けたい授業」「NHKスペシャル」などのテレビ出演や 講演の依頼も多い。

海獣学者、クジラを解剖する。

日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』が発刊された。海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発刊を記念して、内容の一部を公開します。

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