クライミング事故の責任は誰にある? 登山の娯楽性と危険性に切り込むノンフィクション【後編】

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 シュイナード・イクイップメントがますます苦しい立場に追い込まれるなか、その〝お隣さん〞であるパタゴニアの社員たちも神経をとがらせるようになっていった。書類上、2つの企業は完全に独立しており、仮に原告が、この苦境に立たされた登山用具会社を相手に大勝を収めたとしても、パタゴニアの豊富な資産にまで手を伸ばせる可能性はほとんどないはずだ。とはいえ、両社の密接な結びつきを考えると、2つの会社を分かつ〝企業のヴェール〞が剥ぎ取られる(法人格否認の法理〔紛争の解決に必要な範囲で、法人とそのオーナーの分離を否定し、両者を一体と見なすこと〕が認められる)可能性はゼロとは言えず、それを考えるだけでシュイナード側の弁護団は青ざめた。

 時が経つにつれ、当初は思いもしなかった選択肢が残された唯一の道であるように見えてきた。連続する不法行為法訴訟の波によって沈没寸前のシュイナード・イクイップメントは、もう見捨てざるをえないのではないか、という。そして、1989年4月17日、イヴォン・シュイナード本人の名を冠した、その輝かしいキャリアの原点であり、アウトドア界の軌跡に多大な影響を与えたこの企業は、連邦破産法第11条の適用を申請することとなった。

 これによってすべての訴訟がいったん保留となったため、その間にシュイナードは今後の方針について考えをめぐらせた。そして結局、連邦破産法適用となったシュイナード・イクイップメントは解散し、メトカーフを筆頭とした元社員たちが、ブラックダイヤモンドというまったく新しい企業を立ち上げることになった。さらにメトカーフは、シュイナード・イクイップメント社の受けていた注文、設備、在庫、有形無形の資産の一切合切――要は、シュイナードという名前と会社を悩ませた法的責任以外のすべてを――買い取るという取り決めを成立させる。

 1989年12月1日にブラックダイヤモンド社がすべてを引き継いだとき、業務自体は以前とほとんど同じだった。だが、会社は新しく生まれ変わり、訴訟も抱えていない状態になったため、保険料は年間32万5000ドル(22万ドルの控除条項付き)から、15万ドル(2万ドルの控除条項付き)まで下がった。

 要は、シュイナード本人がクライミング事業から手を引くことで、責任訴訟の問題を解決したのだ。それに業界全体で見ても、ここ数年で保険料は以前よりも若干下がり、店じまいをしなかった競合他社も加入しやすくなっている。だが、アメリカ人の訴訟好きは悪化する一方だ。「まったくひどい。私に言わせれば不治の病です」とジム・マッカーシーは言う。「いまの人たちは自分の行動に責任を持とうとしません。『これは自分のせいじゃない。必ずほかに誰か責められるべき人間がいるはずだ』とね」

 この〝不治の病〞の影響はすでに登山業界全体におよんでいる。クライミングロープの大手製造元であるブルー・ウォーター社は、製造物責任訴訟を恐れて、クライミング大会のスポンサーをやめ、賞品としてロープを提供することすらしなくなった。ブラックダイヤモンド社は、「ゲート・フラッター」と呼ばれる登攀者が下降するときに振動でカラビナのゲートが開いてしまうというありがちだが非常に危険な現象を防ぐための、独自のロック方式を採用したカラビナを開発したばかりだが、顧問弁護士からは市場に出さないよう忠告されている。「この商品はあまりに革新的すぎるんです」とメトカーフは言う。「機能は素晴らしいのですが、誤った使い方をされる可能性が高く、売り出せばどうしても会社をリスクにさらすことになります」

 ただ、きたる5月31日にワイオミング州シャイアンで予定されている賠償請求裁判の結果が持ちうる影響は、これとは比べものにならない。アメリカ合衆国国立公園局を代表して証言台に立つことになっているマッカーシーは、この訴訟はクライマーだけでなく、アウトドアを楽しむすべての人に深刻な影響をおよぼすことになるのではないかと危惧している。

 1987年6月28日。グランドティトン国立公園で期間限定のアルバイトをしていた4人の大学生が、ティトン山脈の南端に近い場所にある標高3639メートルのバック山の東尾根を勢いにまかせて登りきった。下りは二手に分かれ、2人の学生は正午までに下山を果たしたが、1人が岩棚で立ち往生。もう1人は固く凍った氷の斜面から滑落して頭にひどい傷を負い、そのあとなんとか意識を取り戻したものの、雪解け水がつくる浅い水たまりに落ちて動けなくなった。下山した最初の2人は数時間待ってから救助を要請したが、そこから捜索の開始までさらに数時間を要した。岩棚で立ち往生していた学生は深夜2時半に発見され最後には助かったが、4人目は水たまりに横たわったまま夜明けまで放置され、見つかったときにはすでに低体温症で亡くなっていた。そして本件に関して、公園管理局の「グランドティトン国立公園内における娯楽目的のクライミング活動の規制が不十分」であり、救助を迅速に実行しなかったという訴えが提起された。

「そもそも、誰かが危ない目にあったり行方がわからなくなったりするたびに、ヘリコプターを飛ばして救助する義務が公園管理局にあると想定すること自体が論外です」とマッカーシーは言う。「この件で原告側が勝訴したら、この国のすべての国立公園が閉鎖され、立ち入り禁止になるでしょう」

 グランドティトン国立公園の法務担当で、公園内の事故に起因する訴訟や法的行為を一手に引き受けるドン・コエーリョも、一見大げさにも思えるマッカーシーの主張をあながち的外れではないと言った。「みな、この訴訟の行方に神経をとがらせています……一度、前例ができてしまえば大変なことになりかねません」

 *1991年11月13日、アメリカ合衆国連邦第10巡回区控訴裁判所は、国立公園局側勝訴の判決を下した。

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WILDERNESS AND RISK 荒ぶる自然と人間をめぐる10のエピソード

ベストセラー『荒野へ』(1996年)、『空へ−悪夢のエヴェレスト-』(1997年)で知られるジャーナリスト、ジョン・クラカワーの初期エッセイをまとめた『WILDERNESS AND RISK 荒ぶる自然と人間をめぐる10のエピソード』が発売された。 ビルの高さの大波に乗るサーファー、北米最深の洞窟に潜るNASAの研究者、 70歳ちかくなってもなお、未踏ルートに挑み続ける伝説の登山家・・・。 さまざまな形で自然と向き合う人間模様を描き出す10編の物語から、 1986年に起こったクライミング事故を通して、訴訟社会アメリカの姿を 浮き彫りにするストーリーを、本書から一部抜粋して紹介しよう。

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