知っておきたい!北アルプスの山小屋

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『山と溪谷』2023年8月号の特集「北アルプス山小屋物語」の記事を抜粋してご紹介。登山エリアのなかでも設備とサービスが充実し、多くの登山者に愛されている北アルプスの山小屋。それぞれに個性豊かで、宿泊場所としての利用だけじゃもったいない。山小屋の魅力を知って、滞在そのものを楽しもう。さらに、その始まりと時代による変遷を振り返ってみよう。

構成・文=小林千穂・大関直樹、イラスト=マエダユウキ、歴史監修=布川欣一、取材協力=富山県[立山博物館]

北アルプスの山小屋の歴史

江戸時代~明治時代——修行や登拝、山仕事などのために山中泊した

日本人がレクリエーションとして山に登るようになったのは、近代以降のこと。江戸時代以前の入山は、楽しみのためではなく、宗教や山仕事を目的とした。彼らは山中泊では岩屋や巨木の洞など自然を利用して、小屋掛けした。

信仰登山のために建設されたともいわれる小屋が後に立山室堂山荘となる立山室堂だ。立山では平安末期から修験者などが室堂近くの玉殿岩屋(たまどののいわや)で修業を行なっていた痕跡を見ることができる。その後、室町時代になって登拝者が増えると、岩屋に近い平地に小屋が建てられたのではないかといわれている。現在、国の重要文化財にも指定され見学のできる立山室堂は、1700年代に再建されたものだ。

宗教目的以外には、狩りや釣り、杣、炭焼きなどのための作業小屋が多かった。日本各地の山に登ったW・ウェストンの著作には、全国で50軒近くの小屋が登場する。また、明治期になると地形図作成などのために測量官たちも測量小屋を造るようになり、登山者の中にはそれらを利用する者もいた。

明治時代末期——白馬岳頂上直下に測量小屋を活用した初の営業小屋開業

明治中期以降になると、日本人の若者の間で登山が流行。1905(明治38)年には、W・ウェストンの勧めによって小島烏水(こじまうすい)らが日本山岳会を設立した。そんな日本の近代登山の幕開けとともに、07(明治40)年に日本最初の営業小屋白馬頂上小屋(現・白馬山荘)が本格的に開業する。現・白馬村の旅館の息子であった松沢貞逸(まつざわていいつ)は、白馬岳山頂直下にあった、測量小屋として使われていた岩室を整備。開業当初は訪れる登山者もそれほど多くなかったが、野営よりも断然快適だったことから利用者は急増した。そして、15(大正4)年には木造平屋建ての小屋を増築し、収客能力は大幅に拡充。その年の白馬岳の登山者は4000人を越えたという。

山小屋ビジネスに需要があることを確信した貞逸は、翌年に白馬尻に組み立て式の小屋を建設。また、17年には皇族の東久邇宮(ひがしくにのみや)、20年には朝香宮(あさかのみや)の白馬岳登頂が新聞で報道されると、白馬岳の人気はさらに高まり白馬頂上小屋を中心とした白馬岳一帯は大勢の登山者でにぎわうようになり今日に至る。

明治末期の白馬頂上小屋
明治末期の白馬頂上小屋(写真提供=白馬館)

大正時代——山小屋開業ラッシュ。登山ブームを盛り上げる

1916(大正5)年には、東久邇宮稔彦王(なるひこおう)が上高地~槍ヶ岳往復を踏破。これをきっかけに営林署が上高地、槍ヶ岳、大天井岳などの登山道を整備すると、呼応するように北アルプスで山小屋の開業が相次いだ。17(大正6)年には、穂苅三寿雄(ほかりみすお)が北アルプス南部で最初の営業小屋となるアルプス旅館(現・槍沢ロッヂ)を、19(大正8)年には山田利一(やまだりいち)が常念坊(現・常念小屋)を建設。ほかにも大正末期までに燕の小屋(現・燕山荘)、穂高小屋(現・穂高岳山荘)、槍ヶ岳肩の小屋(現・槍ヶ岳山荘)などが開業し、北アルプス南部の縦走ルートは登山者を受け入れる準備が整った。

さらに5万分ノ1地形図の発行、案内人組合の設立、コースタイムや宿泊情報を掲載したガイドブックの発刊、バス・鉄道などの交通インフラの発達も相まって、大正時代には登山が社会現象ともいえるブームとなった。涸沢ヒュッテのように戦後に建設されたものもあるが、現在の北アルプスの主要な山小屋は、大正登山ブームのときに出そろった。

大正10年創業の燕の小屋
大正10年創業の燕の小屋(写真提供=燕山荘)
北ア南部で最初に開業したアルプス旅館
北ア南部で最初に開業したアルプス旅館(写真提供=槍ヶ岳山荘)

昭和30年代~——ヘリが活躍。施設、サービスが向上

大正登山ブームによってにぎわった山も、第二次世界大戦によって登山者は激減。しかし、1956(昭和31)年に日本山岳会隊が8000m峰マナスルに初登頂すると、登山ブームが再燃し山小屋は活況を取り戻した。さらに60年代に入ると、北アルプスの山小屋では、ヘリコプターによる荷揚げを開始。それ以前の歩荷と比べて運び上げられる食料や燃料が飛躍的に増えたため、山小屋の施設やサービス内容も大きく変わった。

食事が山麓のホテル並みにおいしくなり、照明もランプから発電機を使った電灯となった。その後も、徐々に女性登山者が増えると部屋やトイレなどの設備が一段と整備され、大部屋のほかに個室を完備する小屋も増加。現在も北アルプスの山小屋は、設備や食事、サービス面で高いクオリティを維持しており、それを楽しみに訪れる登山者も多い。ただし、近年は新型コロナの影響等で山小屋経営が厳しい状況となり、山の自然環境維持のためにも山小屋の新しいあり方を検討すべき時代となっている。

食事がおいしいことでも評判の燕山荘の夕食
食事がおいしいことでも評判の燕山荘の夕食
ヘリで物資を荷揚げするヒュッテ大槍
ヘリで物資を荷揚げするヒュッテ大槍(写真=渡辺幸雄)

山と溪谷2023年8月号より転載)

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この記事に登場する山

富山県 / 飛騨山脈北部

立山・大汝山 標高 3,015m

 ふつう立山と呼ぶ場合、雄山神社を祭る雄山(3003m)か、浄土山、雄山、別山を含めた立山三山を指す。昔は毛勝三山から薬師岳辺りまでを含めて立山と呼んだし、江戸時代の文人画家、谷文晁(たにぶんちよう)の『日本名山図会』では別山、立山、剱岳をひとまとめに「立山」としている。つまり漠然とした山域なのだ。  その山域の最高峰が大汝山。古くは御内陣と書かれているので、雄山神社の奥社だったと思われる。縦走路から少し東にそびえている。  花崗閃緑岩質片麻岩で構成される大汝山には、西側に氷河地形として知られるカールがある。日本の地理学のパイオニアで、日本の氷河地形を初めて発見した山崎直方の名をとった山崎カールで、天然記念物に指定されている。  冬の北西の季節風で豪雪が山の東側に積もるため、日本のカール地形はほとんど東斜面に発達しているので、西斜面の山崎カールは珍しい。室堂から見ることができる。  地籍は富山県中新川郡立山町。乗鞍火山帯に属す火山で、溶岩台地の弥陀ガ原の上にそびえている。立山のもう1つの顔は加賀の白山とともに北陸の霊山として古くから信仰されていた修験道としての山。  開山は大宝元年(701)で越中介佐伯有頼(慈興上人)が鷹狩りの折、手負いのクマを追って奥山に入り岩屋に追い込んだが、中に入ると阿弥陀如来と不動明王に化身し「立山開山」を命じたとか。同じ8世紀には越中国の国守に任じられた万葉の歌人、大伴家持が「立山に降り置ける雪を常夏に 見れども飽かず神からならし」と歌ったように、立山は霊位に満ちた山なのである。  後年、天台宗と真言密教の修験道場となり、立山三山を極楽、地獄谷と剱岳を地獄に見立てた思想が独得の立山講を生み、山麓の芦峅寺衆徒の立山曼茶羅図による視覚に訴える全国布教で信者を増大させていった。ことに、宗教上のタブーだった女性にも極楽往生ができるという「布橋大潅頂」がセールスポイントで、江戸時代での先進的、精神的女性解放の旗印だった。  イラスト入りで地獄極楽を説き、ほかの宗門では不可能な、女性でさえ極楽往生ができるという説教を聞かされたときの驚きと喜びが、立山講中の賑わいを生み、芦峅寺から材木坂を登り、長大な弥陀ガ原をたどって室堂や雄山へと、三十数kmもの山道の苦行を悦びに変えていたのである。  現在の登山者は室堂までケーブルカーやバスを乗り継ぎ、室堂から2時間30分で雄山へ、さらに15分で最高峰の大汝山に登り着く。

富山県 長野県 / 飛騨山脈北部 後立山連峰

白馬岳 標高 2,932m

 白馬岳は、槍ヶ岳とともに北アルプスで登山者の人気を二分している山である。南北に連なる後立山連峰の北部にあって、長野・富山両県、実質的には新潟を加えた3県にまたがっている。  後立山連峰概説に記したように、この山の東面・信州側は急峻で、それに比して比較的緩い西面・越中側とで非対称山稜を形造っている。しかし信州側は山が浅く、四カ庄平をひかえて入山の便がよいため登山道も多く、白馬大雪渓を登高するもの(猿倉より所要6時間弱)と、栂池自然園から白馬大池を経るもの(所要5時間40分)がその代表的なものである。  越中側のものは、祖母谷温泉より清水(しようず)尾根をたどるもの(祖母谷温泉より所要10時間)が唯一で、長大である。  白馬三山と呼ばれる、本峰、杓子岳、鑓ヶ岳、そして北西に位置する小蓮華山の東・北面は、バリエーション・ルートを数多く有し、積雪期を対象に登攀されている。  近代登山史上では、明治16年(1883)の北安曇郡長以下9名による登山が最初であるとされている。積雪期では慶大山岳部の大島亮吉らによる1920年3月のスキー登山が初めての試みである。  白馬岳の山名は、三国境の南東面に黒く現れる馬の雪形から由来したといわれる。これをシロウマというのは、かつて農家が、このウマが現れるのを苗代(なわしろ)を作る時期の目標としたからであって、苗代馬→代馬(しろうま)と呼んだためである。白は陸地測量部が地図製作の際に当て字したものらしい。代馬はこのほかにも、小蓮華山と乗鞍岳の鞍部の小蓮華側の山肌にも現れる。白馬岳は昔、山名がなく、山麓の人々は単に西山(西方にそびえる山)と呼んでいたのである。また富山・新潟側では、この一連の諸峰をハスの花弁に見立てて、大蓮華山と総称していたようである。  この山からの眺望はすばらしく、北アルプスのほぼ全域はもとより、南・中央アルプス、八ヶ岳、頸城(くびき)や上信越の山々、そして日本海まで見渡すことができる。頂の展望盤は、新田次郎の小説『強力伝』に登場することで知られる。  日本三大雪渓の1つ、白馬大雪渓は登高距離が2kmもあり、全山にわたる高山植物群落の豊かさ、日本最高所の温泉の1つ白馬鑓温泉、高山湖の白馬大池や栂池自然園などの湿原・池塘群、こうした魅力を散りばめているのも人気を高めている理由である。また、白馬岳西面や杓子岳の最低鞍部付近などに見られる氷河地形、主稜線などで観察できる構造土、舟窪地形など、学術的な興味も深い。山頂部の2つの山荘(収容2500人)をはじめ山域内の宿泊施設も多い。

長野県 岐阜県 / 飛騨山脈南部

槍ヶ岳 標高 3,180m

 鋭角に天を突く岩峰でそのものずばりの命名、しかも北アルプス南部の登山道が集中する位置のよさ。槍ヶ岳は北アルプス南部の鎮である。  行政区分からいえば長野県の大町市、松本市と岐阜県高山市との境にそびえている山である。地理的条件も実に絶妙な場所といえる。  南から穂高連峰の縦走路、東から常念山脈や燕岳からの表銀座コース、谷筋では上高地から梓川、槍沢を遡っていく登山道、新穂高温泉から蒲田川右俣、飛騨沢を登るコースと、北アルプス南部のすべてのコースが槍ヶ岳に集中し、中央部へは西鎌尾根が唯一の回廊となって双六岳に通じる、北アルプス南部の扇の要である。  しかも鋭い槍の穂先のような姿は、日本の氷河地形の典型でもある。地質は硬いひん岩で、氷河が削り残した氷食尖峰。東西南北の鎌尾根も氷食地形、槍沢、飛騨沢、天上沢、千丈沢はU字谷とカールという、日本の氷河地形のサンプルぞろいである。  登山史上で初めて登頂したのは江戸時代の文政11年(1828)の播隆上人。4回登って3体の仏像を安置し、鉄鎖を懸けて信者の安全な登拝を可能にした。登路は安曇野の小倉村から鍋冠山を越えて大滝山へ登り、梓川に下って槍沢をつめている。今も残る槍沢の「坊主ノ岩小屋」は播隆が修業した籠り堂だ。  近代登山史の初登頂は明治11年(1879)の英人W・ガウランド。1891年には英人W・ウエストンも登っている。日本人では1902年の小島鳥水と岡野金次郎。穂高・槍の縦走は1909年の鵜殿正雄で、ここに槍ヶ岳の黎明が始まった。大正11年(1922)には3月に、慶応の槙有恒パーティによる積雪期の初登攀があり、同年7月7日には早稲田と学習院が北鎌尾根への初登攀に挑んでいる。早稲田は案内人なしの2人パーティで、槍ヶ岳頂上から独標往復。学習院は名案内人小林喜作とともに末端からと、方式も違う登攀でともに成功した。  その後も北鎌尾根ではドラマチックな登攀が行われ、昭和11年(1936)1月には、不世出の単独行者、加藤文太郎の遭難、昭和24年(1949)1月の松濤明、有元克己の壮絶な遭難が起きている。加藤の遺著『単独行』と松濤の手記『風雪のビヴァーク』は登山者必読の書である。  登山道で直接登るコースは、上高地から槍沢コース経由で槍ヶ岳(9時間30分)と、新穂高温泉から飛騨沢コース(8時間40分)の2本。ほかに穂高連峰からの縦走コース(7時間30分)、燕岳からの表銀座コース(8時間40分)、双六小屋から西鎌尾根コース(6時間)と数多い。

雑誌『山と溪谷』特集より

1930年創刊の登山雑誌『山と溪谷』の最新号から、秀逸な特集記事を抜粋してお届けします。

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