ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人

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『山と溪谷』2023年8月号の特集「北アルプス山小屋物語」から、北アルプスの山小屋を訪ねたルポをご紹介。黒部源流の自然を愛し薬師沢小屋で働く、やまとけいこさん。2年前から支配人となって奮闘中だ。仕事場であり遊び場である小屋に暮らす魅力を聞いた。

文=渡辺裕子(山と溪谷編集部)、写真=矢島慎一


折立から太郎平小屋へ登り、そこから谷へ潜っていくように下ること約2時間半。いくつか沢を渡り、カベッケが原の湿原帯で花々を愛でながら進むと、視界が開け、小屋が現われる。黒部川本流と薬師沢の出合だ。清流沿いの明るく開けた場所に薬師沢小屋は立っている。水量豊かな沢の音を聞き、どこかホッとした気持ちになる。

この場所に惚れ込み、17シーズンにわたってスタッフとして薬師沢小屋に入っているのが『黒部源流山小屋暮らし』(小社刊)の著者で、小誌の連載「黒部源流山小屋料理人」でもお馴染みのやまとけいこさんだ。山と旅のイラストレーターである。高校生のころから登山を始め、日本各地の山々を旅し、渓流釣りや沢登りなどもするうちに、北アルプスの奥地である薬師沢小屋で働くようになった。

「とにかく水が豊富なところが好き。動物も植物も水を必要としていて、水辺は生命力に溢れている。大きな命の循環は水の流れとともにあるんじゃないかと思っています」という。世界でいちばん好きな場所が黒部源流と薬師沢小屋だ。

ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
明るい声で登山者を迎える、やまとけいこさん
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
やまとさんが小屋のスタッフを紹介したイラスト画
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
食堂には、やまとさんの著書『黒部源流山小屋暮らし』の原画が飾られている

北アルプスの山小屋を見渡しても、こんなに水量が豊富な沢のすぐ脇に立っている小屋は少ない。ほかにはない魅力をもつこの薬師沢小屋には登山者以外にも、渓流釣りや、美しい沢として知られる赤木沢などの沢登りで訪れる人もいる。常連も多く、収容人数60人のこぢんまりした小屋でそれぞれの目的をもつ人たちが共に一晩を過ごす。

山小屋に入ると、水場の案内や、スタッフの紹介など、さまざまな小屋の情報がやまとさんのイラスト入りで説明されており、ひとつひとつじっくり見たくなる。さらに奥の食堂に入ると、『黒部源流山小屋暮らし』の装画の原画が飾られている。薬師沢小屋と、やまとさん、その周辺の自然などが描かれた絵なのだが、エメラルドグリーンの清流がみごとに表現されており、まさに先ほど実際に見た黒部源流だった。

もともと移動することが好きなやまとさん。最初は山小屋に入ることで同じ場所に居続けるのがつらくなるんじゃないかと危惧していたが、「同じ場所にいても一日ごとに風景が変わることに気がついたんです。少しずつ季節が移り変わっていくところ、細かな変化に気がつけるというのは、同じ場所で働いているからこそのよさですね。旅に出るのではなく、旅がこちらにやってくるという感覚です」。沢も日によって水量や流れの音が異なり、水の色も変わっていくという。

ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
小屋のそばを流れる薬師沢と黒部川本流。エメラルドグリーンの清流と白い花崗岩とのコントラスト、赤い吊り橋が印象的
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
数日滞在して釣りを楽しむという常連さん
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
小屋の対岸にある沢から引いた、薬師沢小屋のおいしい水

そんなやまとさんは、2021年から薬師沢小屋の支配人になった。この年は引き継ぎをしながら運営し、昨22年からは、やまとさん以外のスタッフは山小屋の仕事が未経験という状態のなかで小屋開けをし、運営をしている。これまでは厨房での仕事がメインだったが、男性が中心に行なっていた外作業も含めて、これまでやっていなかった仕事もすべてするようになった。

小屋開けをするときの作業の一つに水を引く作業がある。薬師沢小屋の水源は対岸にある沢の滝上部から引っ張っているのだが、ホースを持って水源地まで這い登り(結構高い)、吊り橋にホースを沿わせて小屋へ水を引く作業を22年のシーズンはやまとさん自身でやってのけた。

小屋のあらゆる作業を完璧に覚えるのは難しい。山小屋の経験がないとさらにハードルは上がる。ここでまた、やまとさんのイラストが活躍する。引き継ぎの際に教わった作業を、すべてイラストにして図解した手書きノートを作成。これを新しく入ってきたスタッフと共有している。

取材時は22年の小屋開けをして約1カ月たったころだ。「経験のないスタッフたちが、小屋を開けて、お客さんを迎え入れ、今や食事を出している。すごいことですよね」と、スタッフへの思いを語ってくれた。支配人として大切にしていることは、スタッフが健康でケガをせずに働けること。大自然のなかだからこそ、人数が限られているからこそ、人とのつながりは大事だという。模索しながら、スタッフとのコミュニケーションに力を入れている。

ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
取材時のスタッフは4人。食事の準備も総員で行なう
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
小屋開け作業の流れを解説した、やまとさんのメモ。わかりやすい!
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
昨シーズンの小屋のスタッフ。左がやまとけいこさん
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
薬師沢小屋の食事はおいしいと評判。写真は朝食
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
かいこ棚式の客室。このほかに個室もある

やまとさんのイラストは、宿泊者に対してもスタッフにも対しても、重要なコミュニケーションツールになっている。「みんなの“うれしい”を作れることをしたいと思ってイラストの仕事を始めたんです。山小屋の仕事は、一従業員でもいろいろな可能性があるので、憧れの職業になっていくといいなと思っています」。

訪れる登山者も、それぞれの思いでここまでやってきている。常に居心地のよい山小屋でありたいと語ってくれた。

(取材日=2022年7月24~25日)

ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
小屋を円滑に運営するにはスタッフ同士が仲よくいられることが大事だ
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
薬師沢出合は各方面をめざす登山者が交錯する
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
増水時、太郎平小屋から薬師沢小屋までの道を通行止めにする際の目安にしている大岩
ルポ・薬師沢小屋。黒部源流を愛する人
薬師沢小屋へ向かう道中には夏の花が咲いていた

薬師沢小屋を訪ねるモデルコース

雲ノ平・黒部五郎岳(2泊3日)

折立⇒太郎兵衛平⇒薬師沢小屋(泊)
⇒雲ノ平⇒三俣蓮華岳⇒黒部五郎小舎(泊)
⇒黒部五郎岳⇒太郎兵衛平⇒折立

溶岩台地の雲ノ平と三俣蓮華岳、黒部五郎岳など黒部源流域の山々を巡る。北アのなかでも特に奥深いエリアを周回する。池塘やお花畑が点在し、まさに雲上の楽園。もう1泊してゆとりのある行程で臨むのもよい。

●参考コースタイム
1日目:計6時間10分、2日目:計8時間45分、3日目:計8時間45分

●アクセス
[公共交通機関]往復 富山地方鉄道有峰口駅(富山地方鉄道バス、55分、3300円)折立、またはJR・富山地方鉄道富山駅(富山地方鉄道直通バス、2時間、4500円※予約制)折立 富山地方鉄道バス TEL:076-442-8122(乗車券センター)
[マイカー利用]有峰林道(有料道路、通行料小型車2000円)を通行し、折立駐車場へ(無料、300台)

●問合せ先
薬師沢小屋 TEL:076-482-1418(ロッジ太郎)
雲ノ平山荘 TEL:070-3937-3980(現地)
黒部五郎小舎 TEL:080-1588-1606(現地)

●2万5000分ノ1地形図
有峰湖・薬師岳・三俣蓮華岳

ヤマタイムで地図を見る

山と溪谷2023年8月号より転載)

雑誌『山と溪谷』特集より

1930年創刊の登山雑誌『山と溪谷』の最新号から、秀逸な特集記事を抜粋してお届けします。

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