奥多摩の山中で滑落。重傷を負い、飲まず食わずで5日間過ごした女性

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20年間、警視庁青梅警察署山岳救助隊を率いてきた著者が、実際に取り扱った遭難の実態と検証を綴る。安易な気持ちで奥多摩に登る登山者に警鐘を鳴らす書、ヤマケイ文庫『侮るな東京の山 新編奥多摩山岳救助隊日誌』から一部を紹介します。

文=金 邦夫

本仁田山の「ガンバッタさん」

遭難者が自力下山

1999年5月10日の午前9時20分ごろ「山でケガをした登山者が下りてきた」との110番通報があった。私はすぐ交番勤務員と現場である奥多摩工業の構内にジープで向かった。すでに遭難者は救急車に乗せられていたが、意識はハッキリしており、右腕の骨折、全身打撲などの相当ひどいケガのようだった。

女性遭難者Yさん(42歳)は5月5日(こどもの日)に、川苔山に登り、本仁田山経由で大休場尾根を氷川に下山中、40メートルほど滑落し右腕を折るなどして動けなくなった。昨日、やっとのことで除ヶ沢まで下りてきて、今朝、地元のTさんに発見された。なんと着の身着のままで5日間も山の中にいたことになる。

発見者である地元でワサビ農業をしているTさんに話を聞いた。Tさんのワサビ田は、本仁田山から安寺沢に下りる大休場尾根と日向集落に下りるゴンザス尾根に挟まれた除ヶ沢の上流にある。

今朝Tさんは午前8時ごろワサビ田見回りのため除ヶ沢を登りだした。除ヶ沢は初級の沢登り対象の沢であるが、沢沿いにワサビ田に登る仕事道がついている。Tさんがその仕事道を20分ほど登っていくと、上のほうから登山者らしい女性がフラフラと下山してくるのを発見した。近づいてみると、その女性の顔は傷だらけ、服装はドロにまみれて、やっと歩いているという風であった。

Tさんが「どうしたんだ」と声をかけると、弱々しい声で「助けてもらえないかしら」と言って、いままでのいきさつを簡単に話した。Tさんは「救助隊を呼んでこようか」と言うと、女性は「下まであとどのくらいかかりますか」と聞くので「20分くらいだ」と答えると、「それじゃ、なんとか歩けますので手を貸していただけますか」と言った。Tさんは了解し、段差のある場所や狭いところでは女性に手を貸してやり、ゆっくりと歩き1時間ほどかかり奥多摩工業の事務所まで下山した。そこから119番をかけ、救急車を要請したというものであった。

5日間の戦い

Yさんは都内A区に住む会社員、独身で10年ほど前から山登りに親しんでいる。冬場を除いて月に2~3回、低山を中心に奥多摩や丹沢などの山々を歩いている。

5月5日、昨日の雨はあがって青空が出ていた。Yさんは朝早く自宅を出て川苔山を目指した。午前9時15分奥多摩駅に着いて、バスで川乗橋まで行き、林道を細倉橋まで歩いた。そこから沢沿いに百尋ノ滝を通り、12時30分川苔山頂に立った。川苔山には何度か登っているYさんだが、女性の足にしては早いほうである。

山頂で昼食をとり、まだ時間が早いので本仁田山経由で奥多摩駅に下山することにした。本仁田山はまだ登ったことがない。

大休場尾根
大休場尾根(写真=ジュンパクさんの登山記録より)

午後3時、本仁田山に着いた。そこから大休場尾根を安寺沢の方向に下る。左にゴンザス尾根を分けると、急な下り坂となる。10分ほど下ったところで道が怪しくなってきた。立ち木に赤テープが巻きつけてあるから大丈夫だろうと思い、足を踏み出したとたん、フワッと落ち葉が沈み、Yさんは前のめりに急斜面を転がり落ちた。何度転がったろう、体は止まったが、そこも急な斜面で、ズルズルと滑り落ちていくので、近くの大きなカエデの木につかまり、そのカエデの根元に這い上がった。

どのくらい落ちたのかはわからないが、40メートルは落ちたようだ。転がる途中何度か岩にぶつかったときに折れたのか、右腕がまったく利かない。足からも相当の血が流れている。もう登り返すことはできない。また下ることも不可能なようだ。上の大休場尾根を通る登山者がいたら助けを呼ぼうと思い夕方までジッと待った。しかしだれも通ったような気配はなかった。

このときからYさんの戦いははじまる。夜の寒さ、傷の痛み、恐怖感、孤独感、空腹、渇き、睡魔などに耐え、4日4晩その狭いテラスで過ごすことになるのだ。

翌6日、大気が不安定だった。午前中、雷鳴が轟きビー玉ほどもある霰が降った。それがやむと雨に変わった。雨具を着込みジッと耐えた。ペットボトルの水も食料も、昨夜で尽きた。あとは登山者が通りかかって見つけてもらうだけ。ストックでカエデの木を叩きながら助けを呼び続けた。Yさんは一人住まいだから、だれも捜索願いを出してくれる人はいない。会社の人だって「ゴールデンウイークだから、旅行にでも行ってるんだろう」くらいにしか思っていないだろう。

6日、7日とだれも通らなかった。8日は土曜日、9日は日曜日だから、その日に期待するほかなかった。横になるスペースはないから、不安定な場所で、立ったり座ったりするしかない。夜は岩に背をもたれ掛けウトウトすることはあったが、とても熟睡できる体勢ではない。

土曜日、日躍日になっても人の声は聞こえなかった。天気は好かったのだから大休場尾根を登山者が通らなかったはずはない。きっと地形の関係で、どちらの声も聞こえなかったか、思ったより下まで落ちたのだろう。9日、日曜日の午後4時まで待ったが、ついに人の声は聞こえない。Yさんは「このままでは本当に死んでしまう」と思い、意を決する。

上に登り返そうと思ったのだが、右腕がまったく使えず、この急斜面で木につかまることもできない。下るのは危険とわかってはいたが、このまま死を待つよりはいいと、沢に下ることにした。4日間も同じ体勢でいたせいか、足元もおぼつかない。急な斜面を10メートルも滑り落ちたり、転げ落ちたりしながら下った。

午後6時30分、ついに除ヶ沢(本人は安寺沢だと信じていたのだが)まで下降した。水が流れていた。ゴクゴクと腹いっぱいになるまで飲んだ。何日かぶりで飲む「水がこんなにうまいものと初めて知った」と、ほとんどの遭難者は言う。そしてYさんは立ち上がりヨロヨロと下に向かって歩きはじめた。しかしワサビ田の下あたりで日は暮れた。沢の中での5回目のビバークは、いままでのどれよりも寒く、つらい夜だったという。それでも仕事道に出られたことは、そこを下れば生につながることが保証されたも同じだったから、Yさんは頑張った。

5月10日、朝になった。Yさんは歩きだした。最後の力を振り絞り、数歩行っては休み、段差のあるところでは尻をついて降り、そしてまた歩き、下から登ってきたTさんを見つけたときにはフッと気が抜けたように感じたという。

YさんはTさんに連れられて除ヶ沢を下り、救急車で奥多摩病院に運ばれた。そして右上腕骨折、右下腿部挫創、全身打撲などの診断を受け、そのまま入院。体中が青痣だらけだった。

私は医師の処置が終わってから、病室でYさんに入山からの経緯を聞いた。声は小さかったが、彼女の意識はしっかりしており、記憶も明確だった。「頑張ったネ」と声をかけると「コックリ」とうなずいた。久しぶりの「ガンバッタさん」に逢えた。

耐え抜く意志が生還に導く

あんな重傷を負いながら、5日間も山の中に飲まず食わずでいて、なぜ彼女は生還できたのだろう。Yさんは楽観的な性格なのかもしれない。焦らず、あわてず、同じ場所でジッと登山者を待った。日曜日の夕方になってやっと「このままでは本当に死ぬかもしれない」と下山を決意したのである。気の小さい人なら焦って動き回り生還はおぼつかなかったかもしれない。

そしてYさんは意志が強かった。耐えぬく意志。Tさんが「救助隊を呼ぼうか」と言っても自力で下山したことをみてもわかる。プライドもあるのだろう。軽い捻挫をしたくらいで救助隊を要請し、担架を出すとサッサと乗り込み、テコでも動かないぞという態度をとる登山者に聞かせてやりたい話だ。

女性と男性を比較すると、道に迷ったり、滑落したりのアクシデントに遭っても、女性のほうが強いような気がする。チョコレート1枚で10日間も生きていたりするのは大体女性のほうだ。その点男性は非日常的事態に直面すると意外と脆いのかもしれない。

Yさんはいま、奥多摩病院に入院している。都心の病院などより、新緑の山々が見える奥多摩で治療できることはいいことだ。傷の経過も、きっとよい方向に向かうことだろう。

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