台風襲来、雨中のビバーク。誰か助からない者が出るかもしれない・・・『41人の嵐』②

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1982(昭和57)年7月24日に日本の南東海上で発生した台風10号は、8月1日に紀伊半島の南海上を北上、2日0時ごろ渥美半島に上陸し、富山湾から日本海に進んだ。広い範囲で大雨と暴風をもたらした台風は、全国で95人の死者・行方不明者を出した。南アルプス・野呂川源流に立つ両俣小屋の小屋番と、登山者たちの決死の脱出行をまとめた『ヤマケイ文庫 41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録』から、濁流にのみ込まれゆく山小屋を脱出し、山中でビバークを強いられた一行の様子を抜粋して紹介する。

文=桂木 優


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南アルプスの両俣小屋 土石で埋まった両俣小屋裏口(1982年8月)
土石で埋まった両俣小屋裏口(1982年8月)

木の間の空が白み始めた。真っ暗闇だっただけに、白み始めると空だとすぐわかる。だが台風はとうに通過したはずなのに鈍い灰色の空だった。

なぜ明るい青空が見えないのだ。なぜ太陽の色が見えないのだ。寒さに震えながら寒さに耐えながら、みんなが待ち望んでいたのはこんな空ではないのだ。傘とカッパだけでずぶ濡れになりながらも「明るくなるまで頑張ろうぜー」と、お互いに励まし合って暗い山中で耐えたのは、明るくなれば雨も上がって太陽が見られると思えばこそだ。それが明けてみればこんな灰色の空で、しかもまだ雨を落としている。期待は完全に裏切られた。みんなの不安と焦燥はひどくなっていった。

田中さんが「みんなだいぶ冷えてきている。少し歩いて体を動かした方がいいんじゃないか」と、小屋番に言った。みんな一斉に小屋番を見た。

みんなをずうっと励ましていた愛知学院大の学生たちにも完全に疲労の色が見える。気力も失せているようだ。三重短大の学生たちはいまにも泣き出しそうな顔でいる。新潟大の学生たちは相変わらず静かな様子であったが、焦燥の色は隠せない。

愛知学院大の吉田君と平子君が立ち上がって背伸びをした。一晩中大声を張り上げるようにしてみんなを励まし続けた二人だ。頭からしずくをたらしながら拭う術もなく立った二人の目からは完全に気力が失せているようだった。

「愛学の学生でさえこんな状態か」

小屋番は愕然とした。

愛知学院大の学生がバロメーターだと思っていたのだが、その愛知学院大生から気力が失せたとなると危ない。もうダメかもしれないな、誰か助からない者が出るかもしれないと小屋番は思った。

「少し待ってて。上の方の様子を見てくるから」と言って偵察に出た。

五分ほど登ったころ、背の低い、葉の生い繁ったトウヒとシラビソが一面に生えているところがあった。この枝葉で雨よけの小屋が作れる。くさむらもある。ここなら何とか雨風をしのぐことができるだろう。体も動かさなくてはならないから少しは温まるだろうと思いながら、みんなのところへ戻った。

「私は今もどうしたらよいのかわからない。だけど、もう少し登ると草木の繁ったところがある。そこで雨やどりの小屋を作ってとりあえず休もう」

みんなは無言で立ち上がった。ずっと同じ格好で座り込んでいたのだから体の節々も痛いだろうに、ほとんど声も出ない。そして無表情であった。重い足どりで登り出した。

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プロフィール

桂木 優(かつらぎ・ゆう)

1950年福島県生まれ。1971年頃から登山を始める。1978年から広河原ロッジで働き、冬は八方尾根スキー場に入る。1980年、両俣小屋の小屋番になり、1983年から管理人になり現在に至る。本名 星美知子。

41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録

1982年8月1日、南アルプスの両俣小屋を襲った台風10号。この日、山小屋には41人の登山者がいた。濁流が押し寄せる山小屋から急斜面を這い登り、風雨の中で一夜を過ごしたものの、一行にはさらなる試練が襲いかかる。合宿中の大学生たちを守るため、小屋番はリーダーとして何を決断し、実行したのか。幻の名著として知られる『41人の嵐』から、決死の脱出行を紹介します。

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