息もできないほどの風雨。決死の脱出行の行方は・・・『41人の嵐』③

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1982(昭和57)年7月24日に日本の南東海上で発生した台風10号は、8月1日に紀伊半島の南海上を北上、2日0時ごろ渥美半島に上陸し、富山湾から日本海に進んだ。広い範囲で大雨と暴風をもたらした台風は、全国で95人の死者・行方不明者を出した。南アルプス・野呂川源流に立つ両俣小屋の小屋番と、登山者たちの決死の脱出行をまとめた『ヤマケイ文庫 41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録』から、山小屋を出て嵐の中を避難する一行の様子を抜粋して紹介する。

文=桂木 優


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北沢峠の25人(1982年8月)
北沢峠の25人(1982年8月)

横川岳を越えてからは倒木が多くなった。吉田君はうまくリードして通り抜けている。台風の最中に同じ馬鹿尾根を通って行った同志社大パーティーは、さぞかし苦労したことだろう。

愛知学院大パーティーの竹内君、平子君、斉藤君、芝山君、大沢君は野呂川越を出た時から声の出し通しである。かれこれ一時間以上になるだろう。

「イートゥイートゥイートゥイートゥ」
「ガンバ、ガンバ」
「ファイト、ファイト」

一瞬たりとも途絶えることはない。これが訓練のたまものなのだろう。この声に励まされながら二十五人の一行は一歩一歩足を進めてゆく。

高望池を過ぎた樹林帯の急斜面で休憩。午前十一時五十分である。午前九時十分に野呂川越を出発して二時間四十分歩き通した。みんな元気を装っている。ペースも予想より速い。

新潟大から、インスタントラーメンが配られる。四人で一個ほどの割合である。せんべいのようにかじった。ソーセージも五本をみんなで食べた。食べたと言うほどのことでもない。何かを口に入れた、少し口を動かしたという程度である。空腹が満たされるはずもない。ひどい山行である。

だが誰一人文句を言わない。誰一人愚痴を言わない。緊張は続く。

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プロフィール

桂木 優(かつらぎ・ゆう)

1950年福島県生まれ。1971年頃から登山を始める。1978年から広河原ロッジで働き、冬は八方尾根スキー場に入る。1980年、両俣小屋の小屋番になり、1983年から管理人になり現在に至る。本名 星美知子。

41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録

1982年8月1日、南アルプスの両俣小屋を襲った台風10号。この日、山小屋には41人の登山者がいた。濁流が押し寄せる山小屋から急斜面を這い登り、風雨の中で一夜を過ごしたものの、一行にはさらなる試練が襲いかかる。合宿中の大学生たちを守るため、小屋番はリーダーとして何を決断し、実行したのか。幻の名著として知られる『41人の嵐』から、決死の脱出行を紹介します。

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