秘境・川内山塊の最高峰が錦繍をまとうとき。粟ヶ岳ルポ

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観光開発が進む日本の山岳エリアにあって、未だに秘境の趣を残すのが新潟県の川内(かわち)山塊だ。紅葉の季節を待って最高峰の粟ヶ岳(あわがたけ)をめざした。

文・写真=打田鍈一(トップ写真=粟庭から振り返る頂上稜線)

山国日本に残された稀少な秘境の最高峰・粟ヶ岳

粟ヶ岳は川内山塊の最高峰だ。と言っても標高は1293m。奥多摩・大岳山(おおたけさん)の1266mと大差ない。川内山塊は新潟県・飯豊(いいで)連峰の南西、福島との県境近くに起伏している。川内とは現在五泉(ごせん)市の一部となった旧川内村による。その南にある現三条市の東部・旧下田(しただ)村の山域と合わせて川内下田山塊とも呼ばれる。

粟ヶ岳 ブナ林
尾根上には豪雪がはぐくむブナ林が美しく続く(三条コースの尾根道にて)

標高は低いが名だたる豪雪地帯ゆえに、雪の重みに削られ磨かれた山腹は、側壁と言いたい岩壁を並び立て、Ⅴ字谷の険悪な峡谷は深く山体を穿ち、それらに蝕まれた山稜は鋭く切れ上がる。急峻な尾根筋にはシャクナゲ、クロモジ、マンサクなど粘り強い獰猛な灌木薮が繁茂し、山塊のほとんどの山に登山道はない。川内側から最も奥で盟主と言われる矢筈岳(やはずだけ、1258m)、青里岳(あおりだけ、1216m)、五剣谷岳(ごけんやだけ、1188m)などをめざすには残雪を利用するか、峻厳な峡谷を遡行するしかない。さらに人をはばむのは、多くのマムシ、メジロと呼ばれる大量のアブ、地面がゆらぐように立ち上がる無数のヒル群と、想像するだけで背筋が凍る。山国日本に残された稀少な秘境と言える山域だ。

しかしその最高峰には西へ延びる2本の尾根上に加茂市、三条市から登山道が整備され、一般登山者でも日帰りで登れるのだ。粟ヶ岳に立てば秘境の山域を見渡せるに違いない、と初めて訪れたのは1989年、43歳の時だった。

加茂コースに妻を含む女性3人と向かったのは11月下旬。紅葉には遅いが、雪はまださほどではないだろうとの見通しだ。前夜車で自宅を発ち登山口の水源地休憩所で仮眠。尾根上で出会う荘厳な粟ヶ岳に「これが大岳山クラスの山か!」と、愕然と感動。粟ヶ岳ヒュッテ付近で雪が現われ、しかしようやくたどり着いた粟ヶ岳頂上はガスの中。展望ゼロで強風と冷気に追い立てられ早々に退散。帰りの粟ヶ岳ヒュッテで遅めの昼食にありついた。登り4時間50分、下り3時間15分で、その夜は旧川内村の中心地・村松町に投宿。若松屋旅館は以後こちらを訪れる折の定宿となる。

粟ヶ岳 三条コースの六合目を過ぎると粟ヶ岳山頂(右端)が姿を見せる
三条コースの六合目を過ぎると粟ヶ岳山頂(右端)が姿を見せる
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この記事に登場する山

新潟県 / 越後山脈

粟ヶ岳 標高 1,292m

 古地図に青海ヶ岳、淡ヶ岳とも書かれ、地元の五百川や大江集落では、阿波の国から移住した源氏の子孫で、同地を開拓したころに、故郷をしのんで命名したと伝承されており、中腹に粟薬師が祭られている。高山とはいえないが、堂々と肩を張って蒲原平野に直立しているだけに、登山者に限らず、常に眺め暮らしている平野部の人々にはなじみ深い山である。  登山道は、三条市からバスを利用し、奇勝八木ヶ鼻の絶壁を仰ぎながら南五百川から祓川に沿って登り粟薬師堂を経る尾根道と、加茂市から水源池を起点に砥沢峰を越える道が数本あり、両コースを巡回すれば、日帰りで粟ヶ岳の概観を知ることができよう。また、昭和42年伐開の権ノ神岳、橋立縦走コースもあり、残雪期には堂ノ窪山、矢筈岳へと、川内の山々を目指す起点となる。

プロフィール

打田鍈一(うちだ・えいいち)

1946年鎌倉市生まれ東京・中野育ち。埼玉県飯能市在住。低山専門山歩きライター。群馬県西上州で道なき薮岩山に開眼。越後の山へも足を延ばし、マイナーな低山の魅力を雑誌や書籍などで紹介している。『山と高原地図 西上州』(昭文社)を平成の30年間執筆。著書に『薮岩魂―ハイグレード・ハイキングの世界―』『続・薮岩魂 いつまでもハイグレード・ハイキング』『分県登山ガイド10 埼玉県の山』(いずれも山と溪谷社)、『晴れたら山へ』(実業之日本社)、『関越道の山88』(白山書房)のほか、『関東百名山』(山と溪谷社)など共著多数。
(プロフィール写真=曽根田 卓)

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