テントで見た奇妙な夢【山怪】
山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験。べストセラー山怪シリーズ『山怪 朱 山人が語る不思議な話』より一部抜粋して紹介します。
文=田中康弘
テントの中と外
薄い布一枚で自分の居場所を確保し、安心できる空間を作り出すのがテントだ。しかし所詮は薄い布一枚。ほとんど山の中に体を投げ出すのと実は大差ないのかも知れない。
長野県の戸隠山で山岳遭難救助隊隊長を勤める吉本照久さんの話。
「四十年くらい前ですねえ。夏場、甲斐駒ヶ岳に登ったんですよ。黒戸尾根を登って岩小屋に泊まろうかと思ってたんですが、夏だから混んでてねえ。仕方がないから岩場の取っ付き辺りにツェルトを張ったんですよ」
少し広めの場所に簡易テントを設営して仲間と二人でビバーク(不時露営)することにした。山の夜は長い。二人でいつものように取り留めのない話をしていると、テントの外から声をかけられた。
「すいません。中に入れてもらえませんか」
小屋がいっぱいできっと困っているのだろうと思った吉本さんは、迷うことなく返答した。
「どーぞどーぞ、入ってください」
招き入れた男は申し訳なさそうに狭いテントに入ってきた。彼は黄色いカッパに赤いヘルメットを脱ぐとほっとした表情になり、お礼を言った。
「それから酒盛りが始まったんですよ。まあ酒盛りって言ってもね、ご馳走はないけどね」
高所での酒は酔いが回る。疲れた体に酒を染み込ませた三人の男は心地良く寝てしまった。
「これはね、夢なんですよ」
「はっ? 夢? 夢の話ですか」
ノートにペンを走らせていた手が止まった。夢の話では仕方がない。無駄な時間だったかとノートを閉じかけたが、吉本さんの話は続いた。
「朝起きたらその人はいなかったんですよ」
(はあ、夢だった訳だからそうでしょうねえ)
しばらくして寝袋から起き上がった友達は何も話さない。何か様子がおかしい。
「どうした、調子が悪いのか?」
「いや、夕べな変な夢を見たからな、それでよ……」
夢、吉本さんは一瞬体が震えた。友達が見た夢はこうだった。
“夜中に男がテントに入れてくれとやって来て、三人で酒盛りをしたが、朝になったらその男はいなかった”
狭いテントの中で出発の準備をすれば誰だって気がつくはずなのに、いつの間にか男はいなくなっていた。そして三人で酒盛りをした形跡もなかった。二人が見た夢はまったく同じである。
「お前よう、その男どんな格好で入ってきたか覚えてるかい?」
「えっ? あーあれは赤いヘルメット被ってたなあ。あと上は黄色いカッパ着てたよ」
二人は顔を見合わせる。
「今日はもう登るのやめような」
早々に二人は山を下りたのである。
(本記事は、ヤマケイ文庫『山怪 朱』を一部抜粋したものです。)

山怪 朱 山人が語る不思議な話
| 著 | 田中康弘 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 1430円(税込) |
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- 山怪のコミカライズがビッコミ(小学館)で連載中
プロフィール
田中康弘(たなか・やすひろ)
1959年、長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場、特にマタギ等の狩猟に関する取材多数。著作に、『シカ・イノシシ利用大全』(農文協)、『ニッポンの肉食 マタギから食肉処理施設まで』(筑摩書房)、『山怪 山人が語る不思議な話』シリーズ『鍛冶屋炎の仕事』『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』(山と溪谷社)などがある。
山怪シリーズ
現代の遠野物語として話題になった「山怪」シリーズ。 秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとから実話として聞いた、山の奇妙で怖ろしい体験談。
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