家から突然消えた娘【山怪】

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山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験。べストセラー山怪シリーズの新刊『山怪 青 山人が語る不思議な話』が7月1日より好評発売中。本書より一部抜粋して紹介します。

文=田中康弘

鬼の居ぬ里

長野市の西方には戸隠(とがくし)や鬼無里(きなさ)という興味深い地名がある。特に鬼無里、鬼がいない里とはいかにも平穏な感じがするが、実際にはどうなのだろうか。鬼無里の上平集落に住む横矢一尾さんに話を聞いた。

「私の婆さんは若い頃に狐に騙かされたってよう言ってましたね。隣の集落で祭りがあったんです。その帰り道でいくら歩いても家に着かん。そのうち、自分がどこにいるのか分からんようになったって聞かされました。あれは狐のせいじゃ言うんです」

鬼はいなくても狐の悪戯は健在のようだ。

横矢さんは神隠しに類する出来事を覚えている。

「私が小学生の頃ですねえ。西京に住んでおった人がいなくなったんですよ。その人は確か私の三歳くらい上じゃなかったかな」

今から75年前、山里の家では夕餉の支度に取り掛かる頃だった。母親が娘に手伝ってもらおうと声をかけるが返事が無い。

「ちょっと来てぇ。聞こえねえのか、おーい」

大きな声で何度も呼ぶが一向に来る気配がない。仕方がないので母親は文句を言いながら娘の部屋へ向かったが誰もいない。

「あれ、おかしいな。いねーのか」

玄関先を確かめると履物はあるから出かけた訳ではないようだった。しかし家の中をいくら捜しても娘の姿は見当たらない。そのうちに家人が帰ってくる。家の周りも捜したがやはりどこにもいなかった。母親は忽然と姿を消した娘の名を叫び、泣き喚くのだった。

「もう集落中で捜し回ったんですよ。大変な騒ぎでしたねえ。まあその人ね、一週間後に見つかるんですよ」

「ああ、やっぱり山の中ですか?」

「いや、家の中です」

「家の中で?」

「ええ、居間にポツンと座っていたんですよ」

彼女は忽然と消えた時と同じく、やはり忽然と姿を現したのである。母親の喜びは想像に難くない。しかし娘はこの一週間どこにいたのだろうか。

「それが何を聞いても分からんのですよ。何かぼんやりしておって。あれは不思議な出来事でしたなあ」

各地で聞く神隠しの例とよく似ているが、家で消えて家で見つかるのは珍しい。

(本記事は、『山怪 青』を一部抜粋したものです。)

山怪 青 山人が語る不思議な話

山怪 青 山人が語る不思議な話

田中康弘
発行 山と溪谷社
価格 1,650円(税込)
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プロフィール

田中康弘(たなか・やすひろ)

1959年、長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場、特にマタギ等の狩猟に関する取材多数。著作に、『シカ・イノシシ利用大全』(農文協)、『ニッポンの肉食 マタギから食肉処理施設まで』(筑摩書房)、『山怪 山人が語る不思議な話』シリーズ『鍛冶屋炎の仕事』『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』(山と溪谷社)などがある。

山怪シリーズ

現代の遠野物語として話題になった「山怪」シリーズ。 秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとから実話として聞いた、山の奇妙で怖ろしい体験談。

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