谷川岳を登るパーティの前を歩いていた“人”の正体は……【山怪】
山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験。べストセラー山怪シリーズの新刊『山怪 青 山人が語る不思議な話』が7月1日より好評発売中。本書より一部抜粋して紹介します。
文=田中康弘
あなたはだあれ?
群馬県みなかみ町でラフティングの会社を経営する鹿野淳さんは、学生時代に探検部に所属していた。その活動で厳冬期の谷川岳へ登った時の出来事である。
「四、五人で天神平から尾根に出て登り始めたんです。天気は悪かったですねえ。雪も深くて交替でラッセルしながら何とか千七百メートル付近まで来たんです。でも風が強くてそれ以上は無理で、そこからスノーボードで何とか無事に滑って降りました」
悪条件の中での行動は、さすがの探検部でもかなり緊張しただろう。麓に着いて一息入れると一人の部員が奇妙なことを言い出す。
「あのさ、登ってる時に俺たちの前のほうにもう一人いたんだよ、気がつかなかった?」
「何、それ? 別の人が先に登ってたっていうの?」
「そんな人見えなかったよ、何だよ冬の怪談か?」
彼以外にその“人”を見た部員は誰もいないのである。しかし彼の口調は淡々として冗談を言っているようには聞こえなかった。
「気がついたのは、ほら最初の急斜面の所。あそこを登っている途中で誰かが先にいるのが見えたんだよ。でさ、きついから休憩したじゃん、そうしたらその“人”も止まってこっちを振り返るんだよなあ。変な感じがしてその時は言えなかったんだ」
何とも言えない空気が流れる中で一人の部員が口を開いた。
「その“人”が俺たちの先を登っていたらさあ、足跡があるはずじゃない。そんなもんあったか?」
「無いんだよ、足跡は。俺もおかしいとは思ったよ。でも実際に前を歩いてたからなあ」
自分たちの前を登る“人”がいる。しかしその足跡は無い。実に奇妙な話だ。
「俺たちが諦めて帰ろうとしたじゃない。その“人”振り向いてじーっとこっちを見てたんだよ。それですーっと消えていったんだ」
全員鳥肌が立つのが分かった。
「その“人”どんな格好だった? 登山者か?」
「登山者だね、格好は。でも……」
「でも?」
「何というか、古いんだよ。着ているのは今の物じゃないね、かなり昔の古い感じだったな。モノクロ写真で見るような格好だったよ」
谷川岳という場所が場所だけに、全員がそれ以上謎の“人”について触れることはなかったのである。
(本記事は、『山怪 青』を一部抜粋したものです。)

山怪 青 山人が語る不思議な話
| 著 | 田中康弘 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 1,650円(税込) |
はじめに――“ラスト山怪”取材は不安の連続
本格的に山怪の取材を始めたのは平成26年。それ以来、北海道から九州までの山間集落を縦横無尽、右往左往、行き当たりばったりで旅してきた。
毎度言うが、どこに山怪経験者が存在するのか分からないままに取材に突入するのが常である。当然、三日間かけて十人以上の人に会いながら収穫無しという場合もあった。しかしそれはレアケースで、大概の場合、何らかの山怪話を聞くことが出来たのである。
山怪の濃度は地域によって結構差があるようで、東北や紀伊半島、四国、九州は濃い口。北海道や関東、東海は薄口に感じた。もちろん都会の人でもとんでもない山怪を経験した人はいるから個人的な差はある。凄い山の中に住んでいても小さな狐火すら見たことの無い人が実は多いのだ。
*
「『山怪』はシリーズで何巻出せますか? 十巻いきますかね?」
『山怪 弐』を上梓した時、気の早すぎる人に尋ねられたことがある。
「う〜ん、それは無理ですね。何とか頑張っても五巻が限界だと思います」
まさに言霊、この時口にした五巻というワードが最終ゴールとして良くも悪くも設定されてしまった。コロナ禍最中は身動きがとれず取材は完全に停滞、その間にも話を聞けるお年寄りは減っていく。同時に自身の体力も落ちていく。楽観的要素は減り続け、完結する可能性が見通せない状況を感じることも度々あった。本当に終盤は神頼み、近所の稲荷に手を合わせて取材へ向かう始末である。もちろんお礼はしっかりとしたが、この稲荷参りのきっかけも、実は本書の取材と関係が深いのだ(どこかに出ています)。神頼みもあってか無事に取材を終え、面白いものが出来上がったと自画自賛している次第。
願わくば之を語りて現代人を戦慄せしめたい……おや? どこかで聞いたような。
プロフィール
田中康弘(たなか・やすひろ)
1959年、長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場、特にマタギ等の狩猟に関する取材多数。著作に、『シカ・イノシシ利用大全』(農文協)、『ニッポンの肉食 マタギから食肉処理施設まで』(筑摩書房)、『山怪 山人が語る不思議な話』シリーズ『鍛冶屋炎の仕事』『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』(山と溪谷社)などがある。
山怪シリーズ
現代の遠野物語として話題になった「山怪」シリーズ。 秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとから実話として聞いた、山の奇妙で怖ろしい体験談。
こちらの連載もおすすめ
編集部おすすめ記事

- 道具・装備
- はじめての登山装備
【初心者向け】チェーンスパイクの基礎知識。軽アイゼンとの違いは? 雪山にはどこまで使える?

- 道具・装備
「ただのインナーとは違う」圧倒的な温かさと品質! 冬の低山・雪山で大活躍の最強ベースレイヤー13選

- コースガイド
- 下山メシのよろこび
丹沢・シダンゴ山でのんびり低山歩き。昭和レトロな食堂で「ザクッ、じゅわー」な定食を味わう

- コースガイド
- 読者レポート
初冬の高尾山を独り占め。のんびり低山ハイクを楽しむ

- その他
山仲間にグルメを贈ろう! 2025年のおすすめプレゼント&ギフト5選

- その他