エベレストから自然保護、そして次世代育成へ。田部井淳子が残したもの

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田部井淳子さんが女性として初めてエベレストに登頂して50年。エベレスト後の彼女は登山を続ける傍らで自然保護や次世代の育成など、社会活動にも力を注いだ。女性の山登りを応援する登山サークルで田部井さんと活動を共にしたライター・柏澄子さんが、今あらためて田部井さんの足跡を見つめる。

文・写真=柏 澄子 写真提供=一般社団法人田部井淳子基金


幼いころから心の中に山があった。大学進学で上京後、本格的に登山を始め、やがてエベレストの山頂に立つまでに。けれどエベレスト登頂が彼女の人生の「てっぺん」だったわけではない。その後、世界の登山家たちと交流し、環境問題にも取り組んだ。自分がもがいた分、いつも女性の登山者に寄り添った。故郷東北が地震に襲われたときも、心を寄せ、人々に山に登る機会をつくった。

原風景の那須岳

生涯、山に登り続けた田部井淳子。その原風景は、栃木県の那須岳(なすだけ)にあった。1939年、福島県田村郡三春町に生まれた田部井は、小学4年生のとき、担任教諭の渡辺俊太郎に連れられて同級生たちと那須岳に登った。山頂部が岩で覆われ緑が少ない荒々しい火山の姿を、田部井はこのとき生まれて初めて見た。日本にはこんな風景もあるのかと驚き、自分の足で山を登った先に広がるこの景色を、田部井は鮮明に覚えていた。

1958年、大学進学と同時に上京した。憧れの東京生活だったけれど、田舎育ちのコンプレックスもあり体調を崩した。そんな田部井の様子を見て、同級生が奥多摩にある御岳山(みたけさん)に誘ってくれた。都心のすぐ近くにこんなにも伸び伸びしたところがあることに、田部井はホッとした。以来、自分で山に登るようになった。

社会人山岳会、田部井政伸との出会い

大学を卒業すると、山岳雑誌でみた冬の剱岳(つるぎだけ)に憧れ、社会人山岳会の白嶺会に入会。新人訓練で訪れた丹沢のモミジ岩で初めてザイルを結び、岩を登った。そのときに味わった緊張感や、岩をつかみ攀じ登る感覚が忘れられないものとなった。

ほどなくして龍鳳登高会に入会し、本格的な登山を始める。給料の多くを山道具や山行の交通費にあて、土曜日の半ドンの仕事を終えると、夜行列車で向かう先は谷川岳(たにがわだけ)だった。

のちに夫となる田部井政伸と出会ったのも谷川岳だった。会社の山岳会で活動しており、谷川岳や穂高(ほたか)連峰のみならず、ヨーロッパアルプスにも通うクライマーだった。1967年にふたりは結婚。田部井は“山ガール”に向けた対談で当時の思いをこう語っている。

「周囲の人が遭難して、親が遺体に泣きすがる場面を何度も見た。逆縁は不幸。夫がいれば親の責任がちょっと軽くなるし、万が一のときも政伸であれば、ちゃんと対処してくれると思った」(NHK出版『はじめる山ガール』) やがて田部井にエベレストへ行く話が持ち上がったとき政伸は、「エベレストで長く留守にするのだったら、子どもが欲しい」と持ちかけた。1973年に長女教子が、エベレスト登頂後の1978年に息子進也が誕生した。

女性だけで海外の山へ

時は前後するが1969年、「女性だけで海外遠征を」を合言葉に4人の女性が集まった。田部井、宮崎英子、関田美智子、若山美子だ。4人のなかで唯一海外登山の経験がなかった田部井が、「アンナプルナⅠ峰にモーリス・エルゾーグのルートから登りたい」と語った。わずか2週間後には、14人の女性たちが日本各地から集まった。

翌1970年、アンナプルナⅢ峰へ。女子登攀クラブがアンナプルナ日本女子隊の母体となったが、これは海外登山に向かう女性の隊を長く続けたいという思いだった。8人の隊員が決まり、田部井は副隊長を務めた。30歳のときである。田部井と平川宏子が登頂した。現地から政伸に宛てた手紙には、「傾斜55度の氷壁はやっぱりすごかった。ものすごく硬かった。しかし一ノ倉の冬の凹状はもっとつらかった」と書いてあった。谷川岳で育った田部井らしい言葉だ。

エベレストの頂を越えて

女子登攀クラブがエベレストに向かったのは、その5年後だ。準備は大がかりだったし、資金集めも難航した。またこの5年の間に、田部井は教子を出産した。5年は長いようであっという間だった。

5月16日に田部井とシェルパのアンツェリンが登頂したのは周知のこと。初登頂から20年近くたっても女性の登頂者がいないことに驚くが、それ以上に彼女たちの活躍と田部井の登頂は、登山という枠を超えて、世界の女性たちに勇気を与えたと実感する。田部井は、エベレスト登頂で時の人になった。いままでどおり宿帳の職業欄に「主婦」と書きたかったけれど、それでは収まらなくなった。

エベレスト山頂に立つ田部井淳子さん
エベレスト山頂にて。いまよりも大きい酸素ボンベを背負っている
エベレストのベースキャンプ
エベレストのベースキャンプ。スタッフも加わり大所帯に

1979年、登山家のモーリス・エルゾーグが田部井と潘多(パンドゥ)、ワンダ・ルトキエヴィチをシャモニーに招く機会があった。当時の女性エベレスト登頂者はこの3人だけだった。潘多は、田部井の11日後にエベレストに登頂したチベット人女性だ。中国隊は世界初の女性登頂者を自国から出そうとひそかに企てていたのだ。

アンナプルナ初登頂50周年記念式典
アンナプルナ初登頂50周年記念式典(2000年、シャモニー)。エルゾーグなどそうそうたる登山家たちと

ポーランド人のワンダがエベレストに登頂したのは1978年。ワンダは1992年、8000m峰6座目となるカンチェンジュンガの山頂直下で遭難死した。

当時、エルゾーグが「なぜエベレストに登ったのか」と3人に問うたときの答えが三者三様で印象的だった。潘多が「中華人民共和国のため」、ワンダが「女性の勝利のため」と答える一方で、田部井は「自分自身のため」と堂々と答えた。当時、社会では男女格差が大きく、3歳の長女を夫に預けてエベレストに向かった田部井に対して、周囲は必ずしも好意的ではなかった。その時代にあって、田部井が自分自身のためにと答えた姿勢は、生涯貫かれた。

そして、潘多との友情は彼女が亡くなる2014年まで続いた。田部井は度々、中国に住む潘多を訪ねた。田部井にとってかけがえのない友人であり、互いの心の内を話せる相手だったのかもしれない。

世界の山々へ

その後も田部井は海外の山々を巡った。1992年には七大陸最高峰を登り終え、1999年には旧ソ連の7000m峰5座に登頂し、スノー・レオパードの称号を得た。しかしこれらは、タイトルをねらったのではなく、「知らないところへ行ってみたい」と好奇心のまま行動した結果だった。さらには、世界各国の最高峰を登りたいと、旅をした。

自然保護に注力したのは、エベレストのあとだ。1989年、エドモンド・ヒラリーが世界の登山家に呼びかけ、世界各地の山岳環境を保護する活動を始めた。Himalayan Adventure Trust(HAT、後にHimalayan Environment Trust〈HET〉に改称)が立ち上がり、田部井も参画した。日本でもシンポジウムを開催してほしいという要請があり、田部井は国内に山岳団体と連携し、それを引き受けた。1991年、ヒラリーをはじめとした各国の登山家が来日し、シンポジウムを開催した。田部井は国内でHAT―Jという組織を立ち上げ、山のトイレ問題やルクラのごみ処理、クーンブ地方のリンゴ植樹などに取り組んだ。また、九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程を修了したのが2000年。田部井が61歳のときだった。研究テーマはエベレストのゴミ問題。学問的にも環境保護について学んだ。

次世代へとリンクしていく

田部井は誰よりも女性の応援者であった。世界の女性エベレスト登頂者10人が集まる「ウィメンズ・サミット」を東京で開催したのが1995年。田部井が登頂したあとも、女子登攀クラブの後輩たちにエベレストに登ってほしいと繰り返し、この20年間で32人の女性登頂者が出たことを喜び、この先エベレスト登山が大衆化されていく様子を、しっかりと見守りたいと話していた。

1996年には、エベレスト登頂からの山仲間である北村節子と、「森の女性会議」を立ち上げた。分野を問わず働く女性たちが集まり、共に山に登る、女性という立場から自然を守るのが目的だった。医師、弁護士、公務員、会社経営者、ジャーナリストなど異業種が25人集まった。それぞれの専門性のある話を聞くのを誰よりも楽しんでいたのは田部井であり、また完璧な人間などおらず、誰もが悩みを抱えていることも知り、勇気づけられたと語っていた。

森の女性会議のメンバーたち
森の女性会議のメンバーたちと富士山を眺めに

2009年、女性にもっと自然に親しんでほしいと「MJリンク」という登山サークルを立ち上げた。子どもを産んで育てる性である女性こそが自然のすばらしさを経験すれば、その心は必ず次世代に受け継がれていく、仕事や育児に忙しいこの世代にこそ山に親しんでほしい、というのが田部井の考えだった。山の大先輩の女性たちに講演をしてもらった。田部井は若いころ、おそれ多くて先輩たちに相談できないことがたくさんあったという。だからこそ、自ら若い人たちの輪に入っていき、また、田部井世代の先輩たちを若い人たちに紹介したのだ。

登山サークル「MJリンク」
田部井の死から1カ月後、MJリンクで台湾・玉山へ

故郷を襲った東日本大震災のあとも、田部井は立ち上がった。避難生活を余儀なくされた人たちを山に誘った。「東北の高校生の富士登山」も始めた。1000人の高校生が富士山の山頂に立つまで続けると宣言し、いまそれは、長男の進也が引き継いでいる。

東北の高校生の富士登山
東北の高校生の富士登山。2016年、田部井が亡くなる年の夏

晩年はがんに苦しんだが、最後の最後まで登り続けた。田部井の人生最後の登山は亡くなった年の夏、東北の高校生との富士山だった。女性初のエベレスト登頂後こそが、彼女の人生だった。「自分の好奇心の赴くままに」と山を楽しむ一方で、常に女性の登山者や後輩たち、次世代に受け継ぐ自然環境について考えていた。女性初という称号をプレッシャーに感じたときもあっただろうけれど、その社会的任務をしかと受け止め、生涯山を登り続け、山のすばらしさや魅力を伝えた登山家だった。

柏 澄子(かしわ・すみこ)
登山全般と山岳地域のあれこれをテーマにしたライター。田部井淳子とは、主に晩年に書籍やTV番組制作、MJリンク(女性を対象とした登山サークル)で活動を共にする。主な著書に『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』『日本人とエベレストー植村直己から栗城史多まで』(共著、第12回梅棹忠夫山と探検文学賞受賞)など。今秋に『凪の人 山野井妙子』(すべて山と溪谷社)出版予定。

『山と溪谷』2025年11月号より転載)

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山と溪谷編集部

『山と溪谷』2026年1月号の特集は「美しき日本百名山」。百名山が最も輝く季節の写真とともに、名山たる所以を一挙紹介する。別冊付録は「日本百名山地図帳2026」と「山の便利帳2026」。

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