【書評】揺るがぬ心で生き生かされて『凪の人 山野井妙子』

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評者=武石浩明

登山家・山野井妙子の姿が、ライター・柏澄子の手で鮮やかに浮き上がった。若き日の妙子が、日本からヨーロッパへと活動を広げていく青春時代は知られていないことが多く、生き生きと描かれている。それにしても、取材は大変だったろうと思う。この本に何度も登場する「妙子の記憶にはないが」。彼女は過去に執着しないから覚えていない。だから、取材は当初、関係者を中心に進められた。でも、それだけでは細部は描けない。しかし、取材を始めて半年後、思わぬ発見があった。山野井宅から「妙子の日記」をみつけたのだ。

古い日記には、結婚前の「長尾妙子時代」の膨大な登山記録が記されていた。記録を見るとわかる、いくつもの修羅場を潜り抜けた経験と、それに裏打ちされた確かな判断力。夫の山野井泰史は、言わずと知れた世界的なクライマーであるが、彼が妻・妙子を「最も信頼できる登山のパートナー」と言う意味が、初めて理解できた。

本書では、自然とともに暮らす妙子の静かな日常が心地よく描かれている。その一方で、対極にあるような数々の壮絶な登山も明かされる。1991年、世界第5位の高峰・マカルーに無酸素で登頂後、デスゾーンともいわれる8000メートル以上の高所で、二晩ものビバークを余儀なくされたことも。妙子は驚異的な精神力で下山を果たすが、凍傷で両手足の指18本を失う。でもそれ以上に、一緒に登頂した隊員の石坂工を助けられなかった後悔は消えない。この登山を経て、山野井泰史と暮らすようになったあるとき、妙子がふと語ったのを聞いたことがある。いつも山に出かけるときは、亡くなった石坂だけではなく、山で逝った仲間たちみんなに、守ってくれるようお願いしているそうだ。

同じマカルー隊のメンバーだった二俣勇司と野沢井歩は、92年と2003年にそれぞれヒマラヤの高峰を登山中、雪崩で死亡。青春時代にグランド・ジョラス北壁をともに登った笠松美和子も1993年、中央アルプスの宝剣岳で死亡。そのほかにも、多くの仲間たちが山で命を落とした。妙子の心にあるのは「生かされている」という感謝の気持ちではないか。庭の作物や果物、野良猫などの生き物を大切にして、米の一粒も残さない一貫した姿勢は、それに通じる。マカルーでの事故がなかったら、妙子のその後の人生はどうなっただろう?

実は、あまり変わらなかったのではないかと、私は思う。同じように山野井泰史を生涯の伴侶として、人生の次のステージに進んでいたに違いないと思うからだ。マカルーの後、妙子は夫・泰史の挑戦を支えつつ、自分の山登りや生活も楽しみ続けてきた。これから歳を重ねてもそれが変わることはないのは、この本を読めばわかる。清々しい気持ちとともに、少し生き方を変えてみたいと思わせてくれる一冊だ。

凪の人 山野井妙子

凪の人 山野井妙子

柏 澄子
発行 山と溪谷社
価格 1980円(税込)
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柏 澄子

1967年生まれ。世界各地の山岳地域をテーマに執筆するフリーライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドⅡ。著書に『山の突然死』『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(いずれも山と溪谷社)など多数。

評者

武石浩明

1967年生まれ。ジャーナリスト、映画監督。監督作品に『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』がある。

山と溪谷2025年12月号より転載)

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