山の検索結果

検索条件:

テーマ:百名山

100 件中 11~20件表示

北アルプス・御嶽山 (岐阜県 長野県)

乗鞍岳 

標高3,026m

 飛騨側から眺めた山容が、馬の鞍に似ているところから「鞍ヶ峰(くらがね)」と名づけられ、それが乗鞍岳となった。北アルプスの中で最も大きな山容をもち、裾野を長く引く優美な姿は、昔から飛騨人にとってシンボルとして親しまれてきた。  記録によれば、乗鞍岳は今から1万年前まで噴火していた、とある。5個ないし6個の火山錐が集まった集合火山で、四ツ岳と大丹生岳、恵比須岳、富士見岳、権現岳(剣ヶ峰)などの火山錐が、北から南へと並び、最後の噴火でできた火口湖が、頂上剣ヶ峰とその直下の権現池である。また、山頂部一帯は数kmにわたっていくつかの火口湖、山上台地などが形成され、緑濃いハイマツ帯の間には夏でも豊富な残雪を残し、彩り鮮やかな高山植物とともに、乗鞍岳の雄大で美しい景観をつくり出している。  開山は大同2年(807)の田村将軍と伝えられるが、飛騨側からは天和年間(1680年代)に円空上人が平湯から登ったのが最初で、明治年代には近代登山の先駆者ガウランドやウエストンも登っている。円空上人や木食(もくじき)上人など行者の錬行(れんぎよう)登山もあるが、この山は、御岳や白山と異なって比較的宗教的ムードが稀薄な山であったのは、山容が穏和であり、地理的な条件が悪いことによるものであろう。近代登山幕開け以前は、地元の村人にとっては資源採掘や狩猟の山であり、雨乞い、豊作祈願のための生活の山であった。  明治末期から大正中期にかけては、平湯大滝、平湯峠、旗鉾、大尾根、子ノ原、青屋、上ガ洞、阿多野、野麦などから登山道が開かれ、また信州側からも番所(ばんどこ)、白骨(しらほね)、沢渡(さわんど)、前川渡からの道がつけられた。  だが、乗鞍岳がクローズアップされてきたのは、近代登山が始まってからであり、大衆化したのは太平洋戦争後である。旧陸軍が山頂近くの畳平に航空研究所を建設し、昭和18年には、平湯峠から自動車道路を開発した。やがて敗戦となり、この道路はバス道路に転用され、昭和23年には、高山から標高2700mの畳平まで登山バスが運行されるようになった。さらに昭和48年には乗鞍スカイラインが完成したことにより、マイカー登山ができるようになった。特に夏の最盛期には、頂上剣ヶ峰まで約1時間で登れる手軽さから、畳平周辺は登山者や観光客であふれ、都会の雑踏と変わらないありさまである。 また、摩利支天岳付近には、東京天文台コロナ観側所や宇宙線研究所なども建設された。  しかし、乗鞍岳は壮大な山である。昔の登山道の多くは今も健在で、池塘あり、滝あり、湿原あり、その変化と趣のある道は今でも無尽に存在し、その魅力はいささかも失われていない。  ※環境保護のため、乗鞍スカイライン(平湯-畳平間)、乗鞍エコーライン(乗鞍高原・三本滝-畳平間)は平成15年(2003年)からマイカー規制を実施しており、畳平へは、途中でシャトルバスに乗り換える必要がある。

往復 日帰り 4時間50分
位ヶ原から乗鞍岳往復 日帰り

コース定数:18

北アルプス・御嶽山 (富山県)

立山 立山・大汝山

標高3,015m

 ふつう立山と呼ぶ場合、雄山神社を祭る雄山(3003m)か、浄土山、雄山、別山を含めた立山三山を指す。昔は毛勝三山から薬師岳辺りまでを含めて立山と呼んだし、江戸時代の文人画家、谷文晁(たにぶんちよう)の『日本名山図会』では別山、立山、剱岳をひとまとめに「立山」としている。つまり漠然とした山域なのだ。  その山域の最高峰が大汝山。古くは御内陣と書かれているので、雄山神社の奥社だったと思われる。縦走路から少し東にそびえている。  花崗閃緑岩質片麻岩で構成される大汝山には、西側に氷河地形として知られるカールがある。日本の地理学のパイオニアで、日本の氷河地形を初めて発見した山崎直方の名をとった山崎カールで、天然記念物に指定されている。  冬の北西の季節風で豪雪が山の東側に積もるため、日本のカール地形はほとんど東斜面に発達しているので、西斜面の山崎カールは珍しい。室堂から見ることができる。  地籍は富山県中新川郡立山町。乗鞍火山帯に属す火山で、溶岩台地の弥陀ガ原の上にそびえている。立山のもう1つの顔は加賀の白山とともに北陸の霊山として古くから信仰されていた修験道としての山。  開山は大宝元年(701)で越中介佐伯有頼(慈興上人)が鷹狩りの折、手負いのクマを追って奥山に入り岩屋に追い込んだが、中に入ると阿弥陀如来と不動明王に化身し「立山開山」を命じたとか。同じ8世紀には越中国の国守に任じられた万葉の歌人、大伴家持が「立山に降り置ける雪を常夏に 見れども飽かず神からならし」と歌ったように、立山は霊位に満ちた山なのである。  後年、天台宗と真言密教の修験道場となり、立山三山を極楽、地獄谷と剱岳を地獄に見立てた思想が独得の立山講を生み、山麓の芦峅寺衆徒の立山曼茶羅図による視覚に訴える全国布教で信者を増大させていった。ことに、宗教上のタブーだった女性にも極楽往生ができるという「布橋大潅頂」がセールスポイントで、江戸時代での先進的、精神的女性解放の旗印だった。  イラスト入りで地獄極楽を説き、ほかの宗門では不可能な、女性でさえ極楽往生ができるという説教を聞かされたときの驚きと喜びが、立山講中の賑わいを生み、芦峅寺から材木坂を登り、長大な弥陀ガ原をたどって室堂や雄山へと、三十数kmもの山道の苦行を悦びに変えていたのである。  現在の登山者は室堂までケーブルカーやバスを乗り継ぎ、室堂から2時間30分で雄山へ、さらに15分で最高峰の大汝山に登り着く。

往復 日帰り 2時間40分
室堂散策(ミクリガ池・雷鳥平・玉殿岩屋)

コース定数:10

縦走 日帰り 2時間55分
弥陀ヶ原から八郎坂を下り称名滝へ 日帰り

コース定数:9

縦走 日帰り 3時間
室堂平から池塘が美しい弥陀ヶ原へ 日帰り

コース定数:10

周回 日帰り 4時間50分
花と展望の浄土山から立山・雄山へ 1泊2日

コース定数:20

往復 日帰り 6時間55分
立山を周回&大走りコースを下る

コース定数:27

南アルプス (長野県 静岡県)

聖岳 

標高3,013m

 聖岳は南アルプスで一番南部に位置する3000m級の山である。安倍奥の山から眺めると、屋根の形をした特徴ある山で、すぐ目にとまる。左手の高い方が前聖岳、地図によっては西聖岳とも書いてあるが、3013mの標高がある。主脈から外れた右手の低い方は奥聖岳といい、2982mの高さを有する。三角点(2978m)は低い方にあり、三角点のない高い方を聖岳と呼ぶ。  山名は山が深い南アルプスの中でもとりわけ奥深く、世俗を脱した聖なる山、すなわち聖岳という説と、大井川からこの山に登る沢は悪場が多く、ヘズリ(沢の両岸の岩壁帯をトラバースすること)が多い沢という意味からヘズリ沢―ヒジリ沢―聖沢となり、この沢の源頭の山ゆえ、聖岳になったという説がある。  山頂から主脈を目で追っていくと、うねうねと続く雄大な稜線上にいくつもの名高い山々が浮かび出ている。足元の大きな谷の向こうには赤石岳が両翼を広げた格好で全容を見せる。左手には気持ちのよさそうな広々した平らがあるが、これが百間平である。赤石岳の右奥には均整のとれた悪沢岳が目を引く。さらにその奥には塩見岳の山頂が2つに分かれて見える。もっと奥には日本第2位の高峰、北岳や大きなカールを持つ仙丈ヶ岳と、すべてが3000mを超える山々である。  時間があれば足を延ばして、三等三角点のある奥聖岳を往復してみたい。低いハイマツの中に細い踏み跡がはっきりついている。  聖岳登山の代表的コースは聖沢から聖平経由のルート。しかし聖岳往復だけではちょっともったいない。聖平から山頂をピストンし、上河内岳経由で畑薙大吊橋へ出るコースは、帰路のバス停も近いので便利。  静岡駅からバスで畑薙第1ダムまで入り、ダム湖畔の林道を歩いて登山口を目指す。荷物の大きさやパーティの力にもよるが、3~4時間で登山口に着く。ここから草の中を約1時間、ジグザグ道の急登で汗を流す。やっと平らになるころ造林用の出合所小屋が左手に出てくる。聖沢を渡る吊橋まで巻き道が続き、橋からは尾根道に取り付いて標高をかせぐ。やがて聖岳がよく見える展望台に出ると、そこからは緩やかな道が聖平小屋へ導いてくれる。広々とした平坦地には平成3年に新築された聖平小屋と古い小屋の2棟がある。目的地である聖岳へは、空身で4時間もあれば往復できる。  往復したならば、聖平小屋を後にして上河内岳へ向かう。三角点は縦走路から少し外れているが、静かな山頂だ。茶臼岳の手前を左にとると、横窪沢、ウソッコ沢を経て畑薙大吊橋まで一気の下りである。

往復 一泊二日 14時間35分
南アルプス最南端の3000m峰に登る

コース定数:59

周回 三泊四日 23時間45分
赤石岳・聖岳を周回する3泊4日

コース定数:94

北アルプス・御嶽山 (富山県)

剱岳 

標高2,999m

 剱岳は剱・立山連峰と呼ばれるように、北アルプス北部の立山三山や大日岳と同じ山域にある。地籍は富山県中新川郡立山町と上市町。  北アルプス南部の盟主、穂高連峰と同じように、いかにも日本アルプスの名にふさわしい岩峰で飛騨系閃緑(せんりよく)岩や斑糲(はんれい)岩が氷雪で削り出された氷食冠帽である。氷河の痕はU字谷が稜線を削ってできた「窓」と呼ばれる地形にも見られる。三ノ窓、小窓、大窓などだ。もちろんカール地形も剱沢などに見られる。  登山史としての初登頂は1909年、吉田孫四郎パーティにより長次郎谷から行われているが、その2年前に、すでに陸地測量部の柴崎芳太郎たちが測量のため登頂している。  前人未踏の岩峰と思われていた頂上で、彼らは思いがけない発見をした。槍の穂と錫杖、古い焚火の跡などであった。奈良時代のものらしい。隣の立山とともに修験道の霊場だったのだろう。  現在の一般登山道、別山尾根は、1913年に木暮理太郎、田部重治パーティが初トレースしている。日本でもトップクラスの岩峰でロックゲレンデとして超一流なので、それ以後はバリエーション・ルートをねらう多くのアルピニストにより、さまざまな登路、登攀ルートが開拓されてきた。1923年には今西錦司、西堀栄三郎などの京大パーティによるチンネやクレオパトラ・ニードル登攀など、未開拓の難ルートが登られてきた。豪雪地帯だけに豊富な残雪とすっきりした岩峰群の人気は高く、戦後の登山ブームも加えて多くのクライマーを迎えてきた。それだけに事故も多く、1966年に日本で初めて積雪期登山の届出条例が発令されている。  ロッククライミングの対象として人気の高い三ノ窓や小窓、池(いけ)ノ谷(たん)、東大谷(ひがしおおたん)などにはチンネ、ジャングルム、クレオパトラ・ニードル、小窓ノ王、ドームなどと名づけられた岩壁や岩塔がクライマーの血を躍らせてくれる。  一般登山道は別山尾根。別山乗越から行っても剱沢から入っても一服剱(いつぷくつるぎ)で合流する。前剱を越え、途中、カニのヨコバイ、カニのタテバイなど岩壁を行く所があり緊張する。所要3時間30分。  もう1つは剱岳へ西から突き上げる早月(はやつき)尾根。標高差が大きく、途中の早月小屋で泊まる健脚向。馬場島(ばんばじま)から早月小屋へ7時間、早月小屋から山頂へ所要3時間30分。  裏剱の展望台、仙人池へは剱沢、仙人新道経由で所要6時間。仙人池から仙人谷を下って黒部峡谷の阿曽原(あぞはら)から水平歩道を欅平へは所要7時間。

往復 一泊二日 14時間16分
日本一の大きな標高差がある早月尾根から剱岳往復 1泊2日

コース定数:56

縦走 二泊三日 15時間40分
早月尾根から剱岳へに登り、立山室堂へ 2泊3日

コース定数:64

北アルプス・御嶽山 (富山県)

水晶岳 

標高2,986m

 北アルプスの中央部、最奥の稜線上にそびえる岩峰。裏銀座縦走路の赤岳(水晶小屋)で主脈から北方に分岐し、赤牛岳へ続く稜線の途中にある。双耳峰で三角点のない頂は3000mを超えていると言われることもある(実際には2986mらしい)。  東側は黒部川支流の東沢が流れ、針峰状の側壁に囲まれた急峻なカール地形。西側は岩苔小谷に急崖が雪崩落ち、山麓の樹林の中に水晶池が光っている。  水晶岳とは美しい名で、下ノ本型花崗岩に水晶や柘榴石の結晶が見られるためである。さらに明るい山稜の中で、この山だけが黒っぽい岩塊なので「黒岳」とも呼ばれている。なにしろ奥深い山なので直接登るコースはなく、2泊3日が最低日数となれば登山者も少なくなる。水晶岳を経由して赤牛岳から奥黒部ヒュッテへ下る読売新道は、静かなアルプス最奥の山旅を楽しめるルートとして知られている。  登山口の1つは新穂高温泉。双六岳、鷲羽岳を経て赤岳(水晶小屋)まで所要12時間。大町市から入る烏帽子岳からの裏銀座コースは高瀬ダム上から歩き出し、烏帽子岳、野口五郎岳、東沢乗越を経て赤岳まで所要11時間30分。赤岳から分岐して水晶岳まで40分。

縦走 四泊五日 32時間53分
雄大な山稜を槍ヶ岳に向かう裏銀座縦走 4泊5日

コース定数:121

南アルプス (山梨県)

甲斐駒ヶ岳 

標高2,967m

 全国に駒ヶ岳を名のる山は20座を超えているという。その中で最も高いのが甲斐駒ヶ岳である。作家の宇野浩二は、『山恋ひ』の中で、「山の団十郎」と絶賛した。ふもとから仰いだその山姿は、正にその名に価する高貴な山容をもって迫ってくる。  太古、武御雷命(たけみかずちのみこと)が生んだ天津速駒(あまつはやこま)という白馬がいた。羽があって空中を飛んでおり、夜になると、甲斐駒ヶ岳の頂上で眠ったとのこと。これが命名の由来といわれている。  また、天平3年(731)には、甲斐国から朝廷に、身が黒色、尾が白い馬が献じられた。その馬に乗って聖徳太子が甲斐駒ヶ岳を往復したとか。ふもとを巡る川は、それにちなんで尾白(おじら)川と呼ぶ、などの伝説も残っている。  それはともかく、かつては駒ヶ岳講の名において、白装束の講中登山の山であった。開山したのは、信州・諏訪の小尾権三郎(弘幡行者)で、文化13年(1816)6月15日、20歳のときであった。しかし、文化11年編『甲斐国志』には、すでに「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現ヲ安置セル所アリ」と記しているので、その真偽のほどは分からない。  登拝路のメインルートであった黒戸尾根上に残る、おびただしい信仰のモニュメントの数々を目にすると、そんな歴史上の小さな矛盾は消し飛んでいくような気がする。  かつては、白崩山の異称さえあった、真っ白な花崗岩とハイマツの緑に覆われた山頂からの眺めは、さすがに一等三角点の本点だけのことはある。この三角点のやぐら(覘標(てんびよう))は明治24年7月10日に建てられ、同年7月14日に標石を埋めた。同年9月12日から25日まで観測が行われている。南アルプス三大急登の1つに数えられる黒戸尾根を、重さ90kgもある標石を担ぎ上げた先人の苦労には頭が下がる。  甲斐駒ヶ岳は、伊那の人たちは東駒ヶ岳と呼んでいる。目と鼻の先に見える山に、他国の名を冠するほど人間はお人好しではない。  さて、甲斐駒ヶ岳を巡ってたくさんの花崗岩の岩壁がある。この一帯に集中的に挑みルートを開拓していったのは、主として東京白稜会のメンバーであった。1949年から1970年にかけてのパイオニア・ワークは、一頭地抜きん出ている。この会の代表であった、恩田善雄氏の「甲斐駒ヶ岳―わたしの覚書き」は、甲斐駒周辺の地誌、登攀記録、山名の由来、伝説などを網羅したものである(未刊行)。  登山コースは尾白川渓谷から黒戸尾根経由で山頂まで9時間。南西の北沢峠からは双児山、駒津峰を越えて約4時間の登りで山頂へ。

周回 一泊二日 7時間25分
北沢峠から双児山を経て甲斐駒ヶ岳へ

コース定数:29

縦走 一泊二日 12時間10分
甲斐駒ヶ岳(黒戸尾根・北沢峠) 前夜泊1泊2日

コース定数:53

中央アルプス (長野県)

木曽駒ヶ岳 

標高2,956m

 中央アルプスの最高峰である駒ヶ岳は、伊那谷では西駒ヶ岳と呼び、東駒ヶ岳と称される甲斐駒ヶ岳と区別している。一方、木曽谷の人はこの山を木曽駒ヶ岳と呼び、現在はこの名が一般的になっている。山名の由来は、全国の駒ヶ岳がそうであるように、晩春に中岳から将棊頭山の山腹にかけて現れる駒の雪形によっている。  この山は山岳宗教の山として古くから登られており、天文元年(1532)に木曽上松の徳原春安という人が山頂に駒ヶ岳神社を建てたと伝えられている。近代登山の対象として登られたのは明治24年(1891)8月のW・ウエストンの登山で、友人とともに上松口から登頂、その著書に紀行を載せている。  山頂一帯はハイマツの緑のジュウタンが敷きつめられ、花崗岩砂の白さと見事なコントラストを描き出している。西に木曽前岳(2826m)、南に中岳(2925m)、さらに東には伊那前岳(2883m)を擁し、登山道は四方から集中している。3000mにちょっと欠けるが、その頂からの展望はすばらしい。日本アルプスの中央に位置しているだけに、北アルプスの山並みと乗鞍岳、そして目の前の御岳山、さらに伊那谷を隔てて大パノラマが楽しめる南アルプスと、見飽きることがない。  また稜線や山上湖の周辺では高山植物も多く見られ、イワウメ、イワギキョウ、アオノツガザクラ、タカネシオガマなど、色とりどりの花々が登山者を迎えてくれる。特に中央アルプスの特産種であるコマウスユキソウは、いわゆるエーデルワイスの仲間で、この山域でのみ見られる花である。  登山コースは四通八達しているが、ロープウェイを利用して千畳敷から乗越浄土、中岳を経て登頂するものがいちばん楽なコース(千畳敷から1時間30分)。次に新田次郎の小説『聖職の碑』の舞台でもあるクラシックな、桂小場(かつらこば)から将棊頭山を越えて山頂に至るコースは静かで、中央アルプスらしいムードを楽しめる(桂小場から6時間30分)。そのほか北御所登山口から(7時間弱)、宮田高原から伊勢滝を経て山頂に至るコース(7時間弱)などが伊那側からのルート。  一方、木曽側からは福島Bコース(山頂まで7時間弱)と、木曽側では最もよく利用されている上松コース(7時間弱)の2つがある(福島Aコースは、2025年に廃道が決定)。 いずれにしても、伊那、木曽いずれかの谷から山頂に至り、登りとは反対の谷に下山するようなコース設定をすれば、木曽駒ヶ岳の東西2つの顔と、伊那谷、木曽谷双方の雰囲気を楽しむことができる。

往復 日帰り 3時間55分
中アの主峰、木曽駒を千畳敷から往復する

コース定数:13

周回 一泊二日 6時間17分
中アの主峰であり、圏谷を擁す自然の宝庫

コース定数:22

縦走 一泊二日 8時間25分
木曽駒ヶ岳・将棊頭山を縦走する

コース定数:39

北アルプス・御嶽山 (富山県 長野県)

白馬岳 

標高2,932m

 白馬岳は、槍ヶ岳とともに北アルプスで登山者の人気を二分している山である。南北に連なる後立山連峰の北部にあって、長野・富山両県、実質的には新潟を加えた3県にまたがっている。  後立山連峰概説に記したように、この山の東面・信州側は急峻で、それに比して比較的緩い西面・越中側とで非対称山稜を形造っている。しかし信州側は山が浅く、四カ庄平をひかえて入山の便がよいため登山道も多く、白馬大雪渓を登高するもの(猿倉より所要6時間弱)と、栂池自然園から白馬大池を経るもの(所要5時間40分)がその代表的なものである。  越中側のものは、祖母谷温泉より清水(しようず)尾根をたどるもの(祖母谷温泉より所要10時間)が唯一で、長大である。  白馬三山と呼ばれる、本峰、杓子岳、鑓ヶ岳、そして北西に位置する小蓮華山の東・北面は、バリエーション・ルートを数多く有し、積雪期を対象に登攀されている。  近代登山史上では、明治16年(1883)の北安曇郡長以下9名による登山が最初であるとされている。積雪期では慶大山岳部の大島亮吉らによる1920年3月のスキー登山が初めての試みである。  白馬岳の山名は、三国境の南東面に黒く現れる馬の雪形から由来したといわれる。これをシロウマというのは、かつて農家が、このウマが現れるのを苗代(なわしろ)を作る時期の目標としたからであって、苗代馬→代馬(しろうま)と呼んだためである。白は陸地測量部が地図製作の際に当て字したものらしい。代馬はこのほかにも、小蓮華山と乗鞍岳の鞍部の小蓮華側の山肌にも現れる。白馬岳は昔、山名がなく、山麓の人々は単に西山(西方にそびえる山)と呼んでいたのである。また富山・新潟側では、この一連の諸峰をハスの花弁に見立てて、大蓮華山と総称していたようである。  この山からの眺望はすばらしく、北アルプスのほぼ全域はもとより、南・中央アルプス、八ヶ岳、頸城(くびき)や上信越の山々、そして日本海まで見渡すことができる。頂の展望盤は、新田次郎の小説『強力伝』に登場することで知られる。  日本三大雪渓の1つ、白馬大雪渓は登高距離が2kmもあり、全山にわたる高山植物群落の豊かさ、日本最高所の温泉の1つ白馬鑓温泉、高山湖の白馬大池や栂池自然園などの湿原・池塘群、こうした魅力を散りばめているのも人気を高めている理由である。また、白馬岳西面や杓子岳の最低鞍部付近などに見られる氷河地形、主稜線などで観察できる構造土、舟窪地形など、学術的な興味も深い。山頂部の2つの山荘(収容2500人)をはじめ山域内の宿泊施設も多い。

縦走 一泊二日 10時間15分
蓮華温泉から白馬大池経由で白馬岳へ1泊2日

コース定数:41

縦走 一泊二日 11時間15分
蓮華温泉から沢沿いの古い道・鉱山道で白馬岳へ1泊2日

コース定数:45

往復 一泊二日 11時間15分
栂池から白馬岳往復 1泊2日

コース定数:43

北アルプス・御嶽山 (富山県)

薬師岳 

標高2,926m

 その昔、越中で「立山」というと、北の毛勝三山から南の薬師岳辺りまでを指したという。今では、北アルプス中央部の鎮(しずめ)として人気があり、雲ノ平や黒部五部岳などとともに黒部源流の山と位置づけられている。  薬師岳という名から分かるように、古くから信仰の山であった。和田川上流の隠れ里で、平家落人伝説のある有峰(ありみね)の人々が、薬師如来の山として山頂に祠を建て、毎年6月15日の祭りには登拝して剣を奉納したものである。赤錆びた剣型の板金は昭和30年ぐらいまで祠に見られたものである。  有峰の集落は昭和34年に完成した有峰ダムのため湖底の村となり、山頂の祠に奉納されていた剣型も錆びついたり、登山者の記念になったりして、今はない。  山の姿はずっしりと重量感があり、いかにも霊山にふさわしく大きい。山体の中腹まで石英安山岩、山頂付近は角閃岩を含んだ石英斑岩、つまり花崗岩に近いものなので、輝くような明るい雰囲気がある。  そして、薬師岳の地理的特徴の最たるものは、東面に並ぶ3つのカールだ。日本の氷河地形で最も一般的な圏谷だが、大きな山体にスプーンでプリンをすくったような谷が3つもあり、東側から眺めると壮観である。  山頂をはさんで南稜カール、中央カール、北薬師岳との間が金作谷カールと呼ばれる。カールの下はそのまま黒部峡谷の上ノ廊下に落ち込んでいるというのも、霊山薬師岳にふさわしいスケールである。  登山コースで最も一般向は折立コース。かつての秘境、有峰のダムを通って、一気にバスで折立まで上り、太郎兵衛平経由で山頂へ登るコースだ。稜線の太郎平小屋がいいベースになるので薬師岳、雲ノ平、黒部五郎岳など黒部源流の山々へのメインルートになっている。折立から太郎平小屋(5時間)、小屋から薬師岳(3時間)で8時間の登りでいい。  山の古典といわれる田部重治の著書『山と溪谷』には明治42年に2泊3日で登っている。夜明け前に歩き出し、提灯(ちょうちん)の明りを頼りに下るという強行軍で、有峰に2泊し、薬師岳へは日帰り往復だった。マイカーを使えば富山から日帰りも可能という現在との落差は登山人口を増大させ、明暗こもごもである。  1963年1月には、この山で愛知大学山岳部の13人が遭難して社会問題になったことはよく知られる。広々した山稜で風雪のため方向を失い、黒部側の東南稜に迷い込んだためで、慰霊の十三重塔が折立に建っててる。

往復 一泊二日 11時間40分
折立から薬師岳往復 1泊2日

コース定数:47

縦走 三泊四日 20時間20分
立山室堂から五色ヶ原、薬師岳を通って折立へ 3泊4日

コース定数:70

北アルプス・御嶽山 (富山県 長野県)

鷲羽岳 

標高2,924m

 鷲羽岳は裏銀座コースの屈曲点で、鷲羽乗越を隔てて三俣蓮華岳と対峙している。この辺りの山は北アルプスでも奥深い所にあるが、元禄10年(1699)の越中前田藩の古記録に、すでに鷲ノ羽岳として記載されている。いわゆる「黒部奥山廻り役」による踏破の跡は、ほとんど黒部川の流域のすべてにわたっていたのである。ただし、この鷲ノ羽岳とは現在の三俣蓮華岳のことで、鷲羽岳は東鷲羽岳または竜池ヶ岳と名づけられていた。近代登山の初期に誤記されてしまったらしい。  この山の西斜面は祖父岳とともに黒部川の水源になっている。お花畑からしたたり落ちる、ほんのひとまたぎの流れが黒部峡谷となると思えば、感慨ひとしおである。  南側の中腹に火口湖の鷲羽池があり、槍ヶ岳と見事にマッチして、絵のように美しい。西麓は鷲羽乗越のハイマツ帯で三俣山荘が登山者の安全を守っている。  石英閃緑岩、つまり花崗岩特有の明るい山肌をもつ、裏銀座コースの玄関口にふさわしい雄峰である。  登山コースは新穂高温泉からで、双六岳経由で所要10時間30分。

周回 三泊四日 25時間20分
黒部源流の山々をめぐる人気のコース

コース定数:97

縦走 四泊五日 29時間57分
裏銀座縦走 4泊5日

コース定数:112

縦走 四泊五日 32時間53分
雄大な山稜を槍ヶ岳に向かう裏銀座縦走 4泊5日

コース定数:121

1 2 3 4 5