愛憎の念が入り交じる人物ルポ『さよなら、野口健』【書評】
評者=森山憲一(ライター)
野口健という名前を知らない本誌の読者は少数派なのではないかと思う。一方で、その人物像をよく知っている人もまた多くはないのではないかと想像する。
かくいう私もよくわかっていなかった。世界七大陸最高峰登頂を当時の史上最年少で達成したころまではそれなりに理解できた。富士山やエベレストの清掃活動を始めたときも、登山をやっていればそういう問題意識が芽生えるのは当然と見ていた。
しかしその後、戦没者の遺骨収集に熱を入れ始めたころからよくわからなくなった。政治家との交流が報じられ、政治への転身を考えているのかと思いきや、選挙に出馬するわけでもない。テレビやSNSなどでの発言は登山とは関係ないものも多く、もう登山家は卒業して第二の人生を歩もうとしているのかとも思ったが、ヒマラヤ登山は変わらず続けている。
いったいこの人は何がしたい人なんだろう─。
どこかつかみどころがなく、つかみどころがないゆえに内心が想像できず、想像できないために、よこしまな動機をもった人なのではないかと邪推もする。私にとっての近年の野口健像はそういうものであった。同様な印象を抱いていた読者も少なくないだろう。
そういう人には、本書を一読してみることをおすすめしたい。
本書の著者・小林元喜さんは、野口さんのマネージャーを長年務めた経歴の持ち主。野口さんと活動をともにし、もっとも近くでその人となりを見つめてきたひとりだ。
小林さんによって語られる野口さんの実像は、とにかくめちゃくちゃのひと言。どんなに筋が通っていなかろうが無理そうであろうが、思いついたことは行動に移さないことには気がすまない性格であるらしく、猪のように突き進んでいく。時には、まったく実現していないことを先に公言してしまい、あとから現実を合わせていくというとんでもない力技さえ躊躇しない。
その過程においては当然ながら周囲との摩擦を生む。その摩擦をまるで意に介さないときもあれば、情けないまでにクヨクヨと弱音を漏らすこともある。強いんだか弱いんだかよくわからないところがまた周囲の人間を惑わせる。それが本書から伝わる野口健という人間である。
そんな暴走トラックのような人物に翻弄され続ける小林さんの姿が本書では描かれている。しかし小林さんとて被害者というわけではない。むしろ野口さんの突進に率先してガソリンを注ぎ、自ら濁流に巻き込まれていく。小林さんも野口さんに劣らず野心も自我も強い人なのだ。そんなふたりであるからして、頻繁に衝突もし、実際、小林さんは3回もマネージャーを辞めている。
私は本書をある種の青春記として読んだ。何者かになりたく、しかし、その何者かになるための道筋もわからないままに日々もがき続けてきた、野口健と小林元喜というふたりの男。そういうストーリーが見えてきたとき初めて、つかみどころがなかった野口健という人物の輪郭が明確になったように私は感じた。エネルギーがありながらその発露の仕方を知らず右往左往するというのは私にも経験があるからだ。経験があれば共感も理解もできる。
野口健は清廉なアルピニストなんかではなく、かといって邪悪な野心家でもない。そんなリアルで立体的な人物として描くことができたのは、野口さんの魅力も欠点も知り尽くした小林さんだったからこそなのだろう。
有名人をほめ倒すサクセスストーリーも下衆な暴露本も、もううんざりという人に本書はおすすめである。
評者=森山憲一
1967年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学教育学部卒。在学中は探検部に所属。『山と溪谷』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーライターとして活動する。
(山と溪谷2022年7月号より転載)
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