【書評】支配人昇格新たな魅力で文庫本化『黒部源流山小屋暮らし』
評者=三宅 岳
大人気『黒部源流山小屋暮らし』が文庫本となって再登場である。
なんと「支配人の日々」と題された最終の第五章およそ80ページ分が付け足され、ボリュームアップ。夢あふれんばかりのカラーイラストも満載となり、ちまちました増補改訂どころの騒ぎではない。まるまる一冊新鮮な気持ちで楽しめるほどの、大サービス版となっているのだ。
書き手にして描き手は、「やまとけいこ」さん。まるで「山と溪谷」そのもののような人を食った名前ではあるが、もちろん本名。しかし、名前負けしない、実力発揮の一冊に、まさに名実ともに、やまとけいこさんなのだ、と妙に感心。
さてさて、コロナを挟んで諸事情により、ついに小屋を任される支配人に昇格した、やまとさん。
追加となった第五章を読めばその苦労と、それ以上のお楽しみが目にも鮮やかに浮かび上がるのだから、あら不思議。さっぱりしつつも巧みな文章に、そしてさすがは画伯とほめちぎりたくなる絵の数々に、背負った責任はグンと重くなっているはずなのだが、そんなものをぱっと振り切った明るさがあふれている。近隣小屋との交流まで話は及び、思い浮かぶのは黒部源流の青い空!
それにしても、この一冊を一気に読めば、あらためて山小屋は、これすなわち劇場であると思い知る。
わが身を寄せたことのある多くの山を俯瞰しても、一目で定員がわかる極小の小屋から、数百人もの登山客でひしめき合う巨大な小屋まで。それぞれを舞台に、笑いのこぼれる小話から氷河の時代までさかのぼる歴史絵巻まで、さまざまな物語があふれかえっている。
そんな数多の物語にあっても、きわめて近い過去ながら、もう二度と描けないだろう話が本書にも描かれている。それは、コロナ以前の最盛期の山小屋の景である。布団1枚に2人以上という大混雑する山小屋。定員なんて言葉は宇宙の果てまで吹っ飛んでしまい、重なり合うかのように食う寝る老若男女の登山者たち。それを何が何だかわからなくても、とにもかくにも、寝場所を定め食事を提供するという、あの祭りのような最盛期。今や予約制という言葉の前に突如消えたカオス。中の人であるやまとさんが記すことで、記憶は立ち上がり、ノスタルジーはぐいぐいんと掻き立てられる。
予約なしでふらりと飛び込めたあのころはよかったな、と。
*
評者が心裏に怯えていることがある。この本がおもしろすぎて、舞台である薬師沢小屋の人気が大沸騰することである。ちょっとのんびりしていたら、「今年はぜんぶ満室です」と予約電話の向こうで言われてしまいそうだなア。
黒部源流山小屋暮らし
著 | やまとけいこ |
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発行 | 山と溪谷社 |
価格 | 1,100円(税込) |
やまとけいこ
山と旅のイラストレーター。高校生で初めて北アルプスに登り、山に魅了される。武蔵野美術大学卒業。渓流釣りや沢登り、山スキー、クライミングなど幅広くアウトドアに親しむ。2020年に富山に移住。薬師沢小屋支配人。本誌で「黒部源流山小屋料理人」を連載中。著書に『蝸牛登山画帖』(山と溪谷社)。
評者
三宅 岳
写真家。山岳写真に加え、山仕事や林業もテーマにしている。近著に山人の暮らしと手仕事を紹介した『山に生きる』(山と溪谷社)。
(山と溪谷2024年4月号より転載)
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プロフィール
山と溪谷編集部
『山と溪谷』2024年5月号の特集は「上高地」。多くの人々を迎える上高地は、登山者にとっては入下山の通り道。知っているようで知らない上高地を、「泊まる・食べる」「自然を知る・歩く」「歴史・文化を知る」3つのテーマから深掘りします。綴じ込み付録は「上高地散策マップ」。
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