【書評】没後50年山と文芸の世界にあらためてふれる『尾崎喜八選集 私の心の山』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

評者=石黒敦彦

本書は21世紀の日本の文化・文学への「山からの贈り物」である。

20世紀の近代登山と博物学的な詩精神の最良の部分が一冊にまとめられて、21世紀に引き継がれたことを喜びたい。冒頭の『山の絵本』の出版から90年を経た今もなお、本書に収められた詩とエッセイの数々は、文学としても日本の山のフィールドノートとしても愛されており、山岳関係者や尾崎ファンの間では「『山の絵本』を歩く」会が催されたりしている。

私自身は昨年の杉並区立郷土博物館『生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並』の監修に、詩人の孫ではなく、芸術と科学の相関史の研究者として臨み、その時に近代日本の科学精神の興隆と近現代の登山文化のつながりの深さを知った。それはこの文庫シリーズのほかの著作とも共通する、戦前の岳人たちの「所感」ではない「博物学的な知性」による登山の記録の豊かな蓄積である。

『山の絵本』にも登場する武田久吉は、英国の名門キュー植物園出身の植物学者で、日本山岳会創設者の一員であり、尾崎に自然生態写真の撮影の手ほどきもした。また『雲と草原』で霧ヶ峰ヒュッテ焼失の惨事を描いた名文「灰のクリスマス」には中央気象台長の藤原咲平ら寺田寅彦門下の科学者たちが登場する。尾崎は後に藤原との親交を得て、気象生態写真集『雲』を上梓する(1942年・未収録)。

本書では詩人尾崎喜八の特徴を「文学者としての自覚を持って山と向き合ったことである。詩精神による自然美の認識、博物学的視野、人間存在への普遍的な愛情や、自己の内面に向けられた思索」を持って「山の文学の世界に通底する新たな価値を築いた」という認識で、作品の選抜と編纂にあたっている。

この認識は、尾崎の生誕130年から没後50年に至るここ数年の「北のアルプ美術館」「杉並区立郷土博物館」などの展示の監修・冊子の編集で私が企図したこととも重なっており、21世紀の尾崎喜八再読の基調となるだろう。それが尾崎だけでなく、日本の山岳や里山の文化の再評価、生態学的な知性を持った山の文芸の豊かな可能性の再評価に向かうことを願ってやまない。

詩では前半の『美ガ原熔岩台地』を挙げよう。今も人口に膾炙している「登りついて不意にひらけた眼前の風景にしばらくは世界の天井が抜けたかと思う」から始まる名詩である。そこには熔岩台地という地学の語彙を使ってもなお美しい近代詩を書きうる可能性が示されている。それは科学的・天文学的な用語をファンタジーの世界に臆せず投入した彼の未知の盟友・宮澤賢治とも共通する、昭和初期の口語自由詩の詩人たちが、世紀を超えて我々へ伝えてくれた遺産なのだ。

尾崎喜八選集 私の心の山

尾崎喜八選集 私の心の山

尾崎喜八
発行 山と溪谷社
価格 2,310円(税込)
Amazonで見る

尾崎喜八

1892年生まれ、1974年没。高村光太郎やトルストイ、白樺派の文学の影響を受け詩作を始め、山岳、自然を主題として多くの詩、散文を生み出す。ロマン・ロラン、ヘルマン・ヘッセの翻訳でも知られる。詩集に『空と樹木』『高層雲の下』『花咲ける孤獨』、散文集『山の繪本』『雲と草原』など多数。

評者

石黒敦彦

尾崎喜八・孫。サイエンス・アート研究者。詩人。多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京工芸大学ほかで芸術、工学の学部を超えて講じる。著書『ジオメトリック・アート』など。

山と溪谷2024年4月号より転載)

プロフィール

山と溪谷編集部

『山と溪谷』2024年5月号の特集は「上高地」。多くの人々を迎える上高地は、登山者にとっては入下山の通り道。知っているようで知らない上高地を、「泊まる・食べる」「自然を知る・歩く」「歴史・文化を知る」3つのテーマから深掘りします。綴じ込み付録は「上高地散策マップ」。

Amazonで見る

登る前にも後にも読みたい「山の本」

山に関する新刊の書評を中心に、山好きに聞いたとっておきもご紹介。

編集部おすすめ記事