インタビュー・北アルプスの山小屋を継ぐ人① 蝶ヶ岳ヒュッテ 中村梢さん

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歴史ある北アルプスの山小屋を受け継いで登山者を迎える人がいる。近年新主人となった人たちに、山小屋への思いやこれからの展望について聞いた。

取材・文=大武美緒子

「自分らしいやり方で、スタッフと一緒にここを守っていく」——。蝶ヶ岳ヒュッテ 中村 梢さん

蝶ヶ岳ヒュッテ
「母や創業者の祖父がつなげてくれた縁に支えられています」と話す中村梢さん(写真=渡辺幸雄)

蝶ヶ岳ヒュッテ

常念山脈の南部、標高2677mの蝶(ちょう)ヶ岳山頂直下に位置し、槍・穂高連峰の大パノラマを望める。登山口から蝶ヶ岳ヒュッテまでは、岩場などの危険箇所は少なく、周辺は常念山系屈指の高山植物の宝庫でもある。
蝶ヶ岳ヒュッテ
蝶ヶ岳ヒュッテ。槍・穂高連峰のパノラマを心ゆくまで楽しめる絶好のロケーション(写真=渡辺幸雄)

先代からのものを守りながら、
「もっとなにかできないか」にトライする

大学卒業後、長野県内のホテルに勤務していた中村梢(なかむらこずえ)さんが、急逝した母の圭子さんから経営を引き継いだのは、2020年、25歳のとき。山小屋を引き継いだ直後にコロナ禍に見舞われ、収容人数や予約方法をはじめ、山小屋のさまざまなシステムを変えざるを得なかったが、「感染症対策のために変えたことと、お客様がゆったりと過ごせるように、今の時代に合わせて変える必要があったことが、重なっていたように思います」と中村さんは話す。

蝶ヶ岳ヒュッテが、先代から大切にしているもののひとつが、手作りの味噌を使った味噌汁と地元安曇野の契約農家から仕入れた米で炊いたごはんだ。この味を楽しみに登ってくる登山者も多い。毎年スタッフで味噌の仕込みを続け、先代からの味を受け継ぎながら、もっと安曇野と蝶ヶ岳の縁をつなげるにはなにができるかを考えている。

「地元のクラフトビールを出してみよう、地元の食材を使った飲食店とコラボして新たなメニューを提供できたら、などアイデアはいろいろとあります。うまくいくかわかりませんが、ともかくやってみようと」

さらに、蝶ヶ岳ヒュッテでは今、環境に負荷をかけない山小屋運営にも取り組んでいる。

「莫大な資金がかかる設備投資は、すぐにはできません。でも、なにもやらなくていいわけではない。だったらすぐできることから始めてみようと。スタッフのエプロンを何度も繊維に戻して繰り返し使用できるものにしました。今、間伐材を使ったオリジナルグッズのバッジも開発中です。バッジの売上の一部を登山道維持のために寄付するなど、買ってくださった方がちょっぴり環境に貢献できるような仕組みもつくれたらいいなと話しています」

間伐材を使ったバッジは、蝶ヶ岳ヒュッテのオンラインショップでも発売予定で、どうやって輸送や包装コストを抑えながら、破損などがないように確実に商品を届けられるかを、スタッフと試行錯誤中。今シーズン、8月か9月中の発売をめざしている。

蝶ヶ岳ヒュッテのスタッフミーティング風景
スタッフとのミーティングで。「フラットな関係をつくって率直に話したい」と中村さん(写真提供=蝶ヶ岳ヒュッテ)

さまざまな条件が重なって、今、私がここにいられる

中村さんは、こうしたアイデアを生むためのスタッフとのミーティングを大切にしている。「こうしたらいいんじゃないか」という声があがったら、すぐに採用して試す。やってみてうまくいかない点が出たら、また一緒に見直す。「意見の反映が早いことも山小屋経営のおもしろさですね」と中村さん。

「母の時代は、女性の社会進出という点で紆余曲折があった時期で、ぐいぐい引っ張っていくタイプでないと女性社長という立場を、社会が認めない時代背景もあったのではと思います。私にはそんな力も商売の才能もないので、能力のあるスタッフに投げてしまいます。実直に物を言ってくれるスタッフが増えたこと、山小屋を引き継いだ当初、右も左もわからずオロオロしていた私に、だめなことはだめ、ときちんと怒ってくれる人がいることがうれしいですね」

一緒に手を動かしながらトライ&エラーを積み重ねる。自分らしいやり方と姿勢でこれまでスタッフとフラットな関係を築いてきた。

「私のようなリーダーが認められる社会になったことや、母や祖父の時代からの縁がつながって、支えてくれるスタッフやお客様がいること。さまざま条件が重なって、今、私がここにいられると思っています」

蝶ヶ岳ヒュッテ スタッフの皆さん
一緒に手を動かしながらアイデアを出し合い、できることはすぐに試してみるスピード感が山小屋運営のおもしろさのひとつだと言う(写真提供=蝶ヶ岳ヒュッテ)

「山小屋は一期一会の場所」と語る中村さんにとって、訪れる登山者の言葉がなによりの励みになっている。「何年も蝶ヶ岳ヒュッテに泊まりにきてくれるお客様が『ここがよくなったね』と言ってくれたり、スタッフとの再会を喜んでくれたりするとき『ちゃんと見ていてくれるんだな』と感じて、すごくうれしいですね」と話す顔は、心から楽しそうだ。

山小屋の仕事は多岐にわたり、人材の育成に長い時間とコストがかかる。スタッフが働きやすい環境づくり。登山者の安全登山にもつながる登山道整備をはじめとした技術と経験の継承。経営者としての課題は山積しているが、「スタッフと一緒に、やるべきことを一つひとつクリアしながら、この山小屋を守っていく」と言葉にはゆるぎがない。

試行錯誤を重ねながら築いてきたスタッフとの信頼関係を糧に、中村さんは今、4度目の夏山シーズンに臨んでいる。


『山と溪谷 2023年8月号』

山と共に生き、その自然と登山者を長年見つめてきた山小屋。なかでも、険しく、厳しい自然環境にある北アルプスの山小屋には、それぞれに個性あり、歴史あり。人・道・自然というテーマに分けて、山小屋物語を紹介します。

特集 北アルプス山小屋物語
別冊付録「日本アルプス山小屋名鑑2023」
発売 2023年7月
発行 山と溪谷社
価格 1,320円(税込)
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*この記事は『山と溪谷』8月号特集「北アルプス山小屋物語」収録のコラム「山小屋を継ぐ人」の拡大版です。

この記事に登場する山

長野県 / 飛騨山脈南部

蝶ヶ岳 標高 2,677m

 常念山脈の主峰、常念岳の南に起伏の少ない山稜を横たえるのが蝶ヶ岳。5月末から6月にかけて、この地味な山稜の一部に黒い蝶が舞うような雪形が現れる。松本平の農事暦の1つで、山名もこれからつけられている。  山稜は秩父古生層で構成され、山頂は粘板岩などの砕石で埋まり、北端に岩塊の重なる蝶槍がある。頂上の南には二重山稜があり、蝶ノ池、カモシカの池、長塀(ながかべ)尾根の妖精ノ池など、舟窪地形が多い。  お花畑とともに登山者にとっての魅力は、蝶ヶ岳から蝶ヶ岳ヒュッテにかけての稜線から見る穂高連峰と槍ヶ岳の大展望である。梓川渓谷を隔てて連なる岩峰群は、カール、U字谷などの氷河地形の観察にもいい。  登山道は豊科(とよしな)から三俣までタクシーを利用し、所要5時間。上高地から長塀尾根を登って所要5時間30分。

雑誌『山と溪谷』特集より

1930年創刊の登山雑誌『山と溪谷』の最新号から、秀逸な特集記事を抜粋してお届けします。

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