吾妻連峰・一切経山。錦繍の紅葉に彩られたシモフリ新道を歩く
南東北の紅葉の名所として知られる吾妻連峰。浄土平の混雑を避けて、最近再整備されたシモフリ新道から秋色に染まった一切経山をめざした。
写真・文=曽根田 卓
五色沼の遭難碑に思う
五色沼北西の登山道左手に、行書体で刻まれた「女子師範生遭難碑」がある。多くの登山者はこの遭難碑に気も留めないで通り過ぎていく。私はその痛ましい遭難の事を『山に逝ける人々(後編)』(春日俊吉著・森林書房)を読んで知っていた。現代でも参考になる山岳遭難事例と思うので、遭難に至った経緯を抜粋して紹介したい。
1926(大正15)年9月17日。信夫高湯(現在の高湯温泉)の信夫屋と安達屋の宿屋2軒は、吾妻山登山を行なう福島県女子師範学校の生徒138人の宿泊でにぎわっていた。その日は朝から暗い雲が低く垂れこめ、電話で測候所に確認すると「風雨強かるべし」の予報であった。しかし雨が降っていなかったので、一行は午前6時、信夫高湯を出発する。生徒のほかに、付き添いの教師4人(斎藤、緒方、山崎、山下)、そして案内人として信夫屋の若主人の黒沢氏、庭坂の住人の三浦君の2人と、写真館主の大橋氏が同行した。天狗の鞍部 (当時の地名のため、現在の位置関係が一部不明)に午前8時過ぎに到着。この時点で若い2年生73人がバテ気味となっていた。午前11時半(その30分前から弱い雨が降ってきた)、一行は天狗の起伏を越えて一切経山の裾に取り付き始めたとき、物凄い暴風雨が襲ってくる。残暑が残る時期の登山なので、誰も防寒や雨具の準備をしていなかったため、瞬時にして一行はだら濡れの状態で彷徨し始めた。あまりの豪雨に声での伝達ができず、生徒たちは友の名を呼び、好きな先生の後を追って嵐の中を四方八方に散らばっていった。結果、3グループに分かれてしまい、山崎教諭に集った20余人の一隊は、運よく元来た道が見つかり午後3時10分に高湯温泉に帰着。緒方教諭が率いるグループは、案内人の三浦君の働きにより一切経山の横を南下して、午後2時に浄土平の硫黄製造所にたどり着き、休憩の後、午後6時20分命からがら高湯温泉に戻れた。
しかし斎藤、山下教諭、黒沢氏、大橋氏を含む、残りの約25~26人のグループが五色沼湖畔に取り残される形となり、ここから死の彷徨が始まる。案内人の黒沢氏は家形山を天狗と誤認し、一度は烏帽子山方面へ入り込み、引き返して谷地平へ出ようとし、更に薬師森(位置不明)の方向へも足を向けた。豪雨の最中に体力のない女生徒を連れ回してしまったのだからたまらない。結局五色沼湖畔に戻ったのが午後6時。そこで二年生の芳賀さん(17歳)と菊池さん(17歳)が倒れ込んでしまう。その後、大橋氏も倒れ、黒沢君が責任の呵責と疲労のために人事不省となってしまった。全員この場に残れば死は避けられないので、体力が残っていた上級生6人と斎藤教諭がこの場に残り、山下教諭が残りの生徒を連れて下り始め、午後8時半、やっとの事で高湯温泉に帰り着いた。
その後、現場に残った斎藤教諭と生徒6人は、倒れた4人が絶望と知り、夜12時に風雨の中を下山、翌日未明に幽霊のような恰好で温泉にたどり着くことができた。この様な状況下で亡くなられた方が4人だったのは奇跡的なことだが、凍傷により治療を余儀なくされた方が14人もいたという。私は若くして命を落とした2人の女生徒と男性たちを悼み、そっと遭難碑に手を合わせた。
慶應吾妻山荘から下山する
五色沼の北岸まで回り込んでいくと、雲が消え一切経山が見えてきた。家形山頂まで登ればさらに雄大な景色が広がるので寄り道する。五色沼と秋色に染まる一切経山の風景を眺めながら食べたおにぎりはとてもおいしかった。
家形山分岐まで戻ると再びガスに視界が遮られるが、大根森(だいこんもり)へ下っていく途中で雲の下に出て視界が開けた。真っ赤なドウダンの紅葉に囲まれたエリアを通過し、大根森まで下ると、ダケカンバの黄色に、低灌木の赤とオレンジ、そして針葉樹の緑が織りなす原色の紅葉に包まれた。それとは対照的に、北西の蟹ヶ沢源流部に広がるダケカンバの森が、吾妻連峰特有の黄葉に彩られて、二通りの色あいの紅葉を同時に楽しめたのがうれしかった。
家形山避難小屋への道が分かれる硯石を過ぎ、少し下ると慶應吾妻山荘へのT字路に着く。「おいしいコーヒーが飲めますよ」とそこで出会った方がアドバイスをくれたので、山荘へ立ち寄ることにした。慶應吾妻山荘は静かなヒノキアスナロの森の中に立っている。この山荘の完成は1969年。以前NHKで放送された「日本百名山」の番組の中で、「慶応義塾大学が吾妻に山荘を建設するきっかけになったのは、日本山岳会の創立者であり、日本におけるアルピニズムの先駆者(大正10年にアイガー東山稜を初登攀)、大学OBの槇有恒さんの意見を取り入れた」と当時のことを知る方が話されていたのを思い出す。
現在の山荘は管理人が冬季を除き常駐している。25人は収容可能で、宿泊は予約が必要だとか。山荘の中は山小屋のイメージとは異なり、昔ながらの喫茶店という感じだった。山荘前まで引いている湧き水がおいしいのか、淹れ方がうまいのか、味わい深いコーヒーを堪能する。ジャズが流れる室内は吾妻の山中にいることを忘れてしまうようだ。
山荘から不動沢登山口までは樹林帯の単調な下りが続く。井戸溝や湯ノ平などのプレートを見ながらほぼ平坦な道を進めば、シモフリ新道が分岐する賽の河原に着く。磐梯吾妻スカイラインを走行する車の騒音が聞こえてくれば、そこから不動沢登山口まではわずかな距離だった。
この周回コースは一切経山山頂や五色沼一帯がにぎやかなだけで、そこから離れると静寂の山旅を楽しめるすばらしいコースだった。「秋の紅葉の頃が最高だよ」という山仲間の言葉通り、多彩な紅葉の世界を満喫できた一日だった。慶應吾妻山荘に一泊して逆コースを歩いても楽しいだろう。
MAP&DATA
コースタイム:不動沢登山口〜中天狗山〜一切経山〜家形山〜慶應吾妻山荘〜賽河原〜不動沢登山口:約6時間40分
プロフィール
曽根田 卓(そねだ・たかし)
1958年生まれ。山岳写真クラブ仙台所属。宮城県の山500座を踏破。東北の山に精通し、雑誌『山と溪谷』などでコースガイドを執筆。みちのくの山歩きの魅力を紹介している。
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