南アルプス南部調査人、四国遍路を歩く④徳島県の遍路道 概要と特徴

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弘法大師・空海が修行した地・四国と、ゆかりの八十八寺をお参りする巡礼・四国遍路。南アルプス南部を主なフィールドとして長らく山歩きに傾注してきた筆者が、数カ月にわたって通い続け、歩き遍路を結願(けちがん、すべての霊場を回り終えること)した。その記録とともに、登山経験豊富な筆者ならではのアドバイスをつづっていく。

写真・文=岸田 明 カバー写真=四国三郎とも呼ばれる大河、吉野川での日の出

徳島の遍路道周辺の歴史的スポット

吉野川北岸には古墳が点在しているほか、第十四番常楽寺、第十五番国分寺の西側の阿波史跡公園周辺にも数多くの古墳があり、特に宮谷古墳(みやだにこふん)からは、卑弥呼と関連があるともいわれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土している。

阿波史跡公園にある八倉比賣神社(やくらひめじんじゃ)が卑弥呼の墓であり、邪馬台国は徳島にあったとする説をとなえる研究者もいるが、真偽については今後のさらなる研究を待ちたい。いずれにしても徳島県は、古代史において非常に重要な地域であったことは間違いないだろう。

〉八倉比賣神社
八倉比賣神社

もう一つのトピックとしては平安時代末期、源義経と弁慶が屋島の戦いに臨むにあたって、上陸したのが現在の徳島県であったことが挙げられる。第三番金泉寺には、屋島の戦いの戦勝祈願の際、弁慶が持ち上げたといわれている力石がある。

〉第三番金泉寺の力石
第三番金泉寺の力石

また上陸地点であった小松島市には、義経にまつわる史跡や地名が数多く残っている。第十八番恩山寺(おんざんじ)手前には義経が旗揚げをした旗山(当時は小島だった)、恩山寺お参りの後に通る弦巻坂(つるまきざか)などがあり、これらの史跡をたどる道は「義経ドリームロード」として整備されている。

〉弦巻坂
義経が坂の向こうに敵がいないことを確認して弓の弦を巻かせた、といわれている弦巻坂。逆に弦張坂もある。なおこの写真のように四国全体を通して、遍路道は竹林を抜ける箇所が多い

さて最後の話題として、興味深く思っていることについて触れたい。弘法大師は四国を修行しながら回ったわけであるが、じつは悟りを開く修行以外にも、赤色顔料・朱の原料である辰砂(しんしゃ)を探し求めていたのではないか、という説もある。

第二十一番太龍寺(たいりゅうじ)に向かう太龍寺道には若杉山遺跡といわれる辰砂発掘の遺跡があるが、なによりも弘法大師が開いた高野山の北西には、辰砂の産出される地の呼び名「丹生(にう・にゅう)」の名がついた丹生酒殿神社(にうさかどのじんじゃ)と丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)がある。高野参詣道・三谷坂がこれらを結んでおり、さらに町石道(ちょういしみち)に合流して高野山へとつながっている。弘法大師と辰砂との関連は、単なる偶然ではないだろうと思える。

補足

話は変わって、ここで霊場の納経(御朱印をいただく)時間について補足を記しておきたい。第2回の「南アルプス南部調査人、四国遍路を歩く②歩き遍路の計画と装備など」で述べたように、2024年4月から霊場の納経時間が変更され、これまでは午前7時~午後5時であったのが、午前8時~午後5時になった。この1時間の変更は、歩き遍路計画の考え方に非常に大きな影響がある。

以前は、目的としていた霊場の納経時間に万が一間に合わない場合であっても、その日のうちに霊場付近に着いて宿泊し、翌朝一番でお参りして納経所を訪ねることができたが、今後は翌朝の動き始めが今までより1時間遅くなる。

従って夕方5時までに霊場に着く必要があるが、午後に早足にならないよう時間に余裕をもった計画で歩くか、場合によっては納経所への立ち寄りを諦めることも考えなくてはならないだろう。

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プロフィール

岸田 明(きしだ・あきら)

東京都生まれ。中学時代からワンゲルで自然に親しんできた。南アルプス南部専門家を自認し、今までに当山域に500日以上入山。著書に『ヤマケイアルペンガイド南アルプス』(共著・山と溪谷社)、『山と高原地図 塩見・赤石・聖岳』(共著・昭文社)のほか、雑誌『山と溪谷』に多数寄稿。ブログ『南アルプス南部調査人』を発信中。山渓オンラインに記事多数投稿。また最近は四国遍路の投稿が多い。

四国遍路の記事:https://www.yamakei-online.com/yama-ya/group.php?gid=143/

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