台風襲来、濁流にのみ込まれていく山小屋、そのとき小屋番は・・・『41人の嵐』①
午後十時三十分ころであった。
愛知学院大は、新潟大のメンバーが寝入ったようなので一階に下りて来た。小屋番の差し出すウイスキーを飲んだりしながらトランプをしている。三重短大も相変わらず楽しそうにトランプをしている。ストーブの周りでも相変わらず盃が交わされていた。外は風雨が強いが、小屋の中は暖かだったし、不安そうな顔をしている者は誰もいなかった。同志社大は、もはや小屋に来る意志はないと思わなければならない。
「すごい濁流ですね。こんなの初めて見ましたよ」と言いながら愛知学院大の学生が用足しから帰ってきた。濁流の飛沫が小屋の中からも見ることができたが、まだドロヤナギの向こう側だし、と小屋番は全く心配をしなかった。ゴゴン、ゴゴンという地の底から響いてくる音にも驚きはしなかった。
疲れたのか、三重短大が二階に上がって行った。愛知学院大の面々も「さあ、寝よう、寝よう」と言いながら二階に上がって行く。それを潮時と、宴会もお開きになった。ストーブを点検して食器類を台所に運ぼうとした時であった。轡田さんが、まだウイスキーの入っているコップを片手に持ちながら表戸を開けた。そして言った。
「わあ、すごい。小屋の前が川になっている。すぐそこが川だよ」。感嘆の声だった。
小屋番は〝しまった。やられた〞と心の中で叫びながら表戸まで走った。小屋の一メートル先を濁流がものすごい勢いで走っている。しかも刻々と地面を削り取って小屋に迫ってくる。小屋から向こう岸の山まで真っ平らになってしまって一面濁流だった。トーテムポールがぐらっと揺らぎ、揺らいだかと思う間もなく濁流の中に落ちていった。
「みんな起きて! 小屋が危ない! 裏山へ避難だ! みんな起きて! 小屋がやられる! 起きて! 起きろ! 起きろ! 雨具をつけて裏山へ行け! 誰かテントを持って行って! 傘を持って行って! 貴重品だけ持って出て! 早く! 早く出て! 急いで!」
小屋番は叫んでいた。脳天を打ちのめされたようであった。〝しまった! しまった! しまった!〞心の中でも叫び声が聞こえた。
風雨激しい午後十一時三分のことであった。
(書籍『ヤマケイ文庫 41人の嵐 台風10号と
両俣小屋全登山者生還の一記録』から抜粋)

ヤマケイ文庫 41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録
| 著 | 桂木 優 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 1,210円(税込) |
プロフィール
桂木 優(かつらぎ・ゆう)
1950年福島県生まれ。1971年頃から登山を始める。1978年から広河原ロッジで働き、冬は八方尾根スキー場に入る。1980年、両俣小屋の小屋番になり、1983年から管理人になり現在に至る。本名 星美知子。
41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録
1982年8月1日、南アルプスの両俣小屋を襲った台風10号。この日、山小屋には41人の登山者がいた。濁流が押し寄せる山小屋から急斜面を這い登り、風雨の中で一夜を過ごしたものの、一行にはさらなる試練が襲いかかる。合宿中の大学生たちを守るため、小屋番はリーダーとして何を決断し、実行したのか。幻の名著として知られる『41人の嵐』から、決死の脱出行を紹介します。
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