熊野御幸の道・熊野古道紀伊路① 概要と特徴
熊野御幸(くまのごこう)とも呼ばれる熊野詣(くまのもうで)は平安時代中期、宇多(うだ)上皇によって始まったとされており、その後、白河上皇、鳥羽上皇など上皇たちによって毎年繰り返され、活況を呈することになる。紀伊路(きいじ)はこの熊野御幸の道として利用され、江戸時代には武士・農民をはじめ一般庶民による熊野詣でが盛んに行われ、「蟻の熊野詣」と形容されるほどにぎわった。
写真・文=児嶋弘幸、トップ写真=和歌山市内、矢田峠の切通し
熊野御幸の「公式ルート」紀伊路
熊野三山への参詣・熊野御幸は、京都から大阪を通り紀伊半島の西海岸に延びる紀伊路を南下したのち、紀伊田辺で山に分け入り、熊野三山へと向かった。平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう、後白河法皇編)の一首に、「紀路(紀伊路のこと)も伊勢路も遠からず・・・」と記されており、当時から紀伊路と伊勢路があったことがうかがえる。伊勢路の方はリアス海岸の湾内を船で移動できた区間もあったとされる一方、ほとんどの区間を歩かなければならなかった紀伊路は、伊勢路に比べて難路とされていたという。
そんな紀伊路が皇族や貴族の熊野詣に利用され、熊野御幸の公式ルートとして定着することになったのは、一説によると先達を努めた当時の山伏(修験者)が、道中での苦行を要求したからだともいわれている。
熊野御幸の一行は、京都から船で淀川を下り大阪の天満橋付近に上陸。天満橋周辺は、江戸時代には八軒家浜(はちけんやはま)とも呼ばれるようになり、旅人を乗せた三十石船が行き来して大いににぎわった。
上陸後は、道沿いに設けられた神社群「熊野九十九王子」をたどりながら熊野をめざすことになる。「九十九」は数が多いという意味で、「王子」とは熊野三山の祭神の御子神(みこがみ)のことである。それぞれの王子では熊野権現を遥拝し、場所によっては里神楽や和歌会なども行なわれていた。熊野詣の最盛期には、100社余りの王子社が存在したという。
一行は摂津・河内・和泉国を通って紀伊国に入り、さらに紀伊半島の西海岸を南下して口熊野(くちくまの、熊野の玄関口という意)と呼ばれた紀伊田辺に達する。そしてここから、山に分け入る中辺路(なかへち)と、古くから地域の生活道路として存在していた海岸沿いの大辺路(おおへち)に分かれる。それぞれ熊野三山をめざす道であるが、熊野御幸には前者の中辺路のルートが利用された。
紀伊路の特徴
紀伊路は、全体として生活道や車道歩きが多い。現在では大阪府内はほぼ市街地で、大阪から和歌山に抜ける山中渓(やまなかだに)から雄ノ山(おのやま)峠も車道歩きで越える。和歌山県内も、紀伊半島の西海岸沿いの人口密集地を通り抜けるため生活道や車道歩きが多いが、一部小さな峠越えや山越え箇所が残っている。そのため、紀伊路というと和歌山県内の範囲に注目されることが多い。
紀伊路はおよそ150kmを超える距離になり、実際に無理のないペースで歩く場合には14日間ほどを要する。ただ、幸いにもJR阪和線やJR紀勢本線などの鉄道が並行しており比較的アクセスはよく、区切って歩く場合には公共交通機関が利用できる。また生活道や車道歩きが多いぶん、宿泊地には恵まれている。
プロフィール
児嶋弘幸(こじま・ひろゆき)
1953年和歌山県生まれ。20歳を過ぎた頃、山野の自然に魅了され、仲間と共にハイキングクラブを創立。春・夏・秋・冬のアルプスを経験後、ふるさとの山に傾注する。紀伊半島の山をライフワークとして、熊野古道・自然風景の写真撮影を行っている。 分県登山ガイド『和歌山県の山』『関西百名山地図帳』(山と溪谷社)、『山歩き安全マップ』(JTBパブリッシング)、山と高原地図『高野山・熊野古道』(昭文社)など多数あるほか、雑誌『山と溪谷』への寄稿も多い。2016年、大阪富士フォトサロンにて『悠久の熊野』写真展を開催。
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