“シャン……シャン” 錫杖の音とともに避難小屋を訪ねたモノ【山怪】
日本の山には「何か」がいる。怪談ブームの火付け役。山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験。現代の遠野物語としてベストセラーになった『山怪』より、一部抜粋して紹介します。
文=田中康弘
来たのは誰だ
石川県はあまり知られていないが狩猟の盛んな地である。岐阜県との境界に白山連峰が鎮座し、山が深いのだ。そのために動物も多く比例して猟師も多い。
地元金沢には猟師が自分で捕った獲物を提供するレストランが多くある。そんな石川県で二年前に猟師になった人の話だ。訳あって実名と場所は伏せることにする。 彼が住んでいるのは白山の麓、とあるスキー場の近くだ。自分が捕ってきた熊や猪を食べさせる猟師カフェを営んでいる。若手ながらベテランの猟師からは期待をされる次代のホープ的存在なのだ。
「いやあ、○○君は本当にしつこい、感心するくらいしつこいよ」
しつこいくらいに熊を追い、猪を探す。猟師にとって“しつこい”は最高の褒め言葉なのだ。
その彼が猟を始める遥か以前の出来事だ。もともと山が好きで根っからの山男だった彼は山仕事のアルバイトをしていた。それは白山連峰の登山道を修復する仕事である。初夏の頃に機械類や燃料、それに食料をまとめてヘリコプターで運び上げ、作業員は歩いて現場へと向かう。初雪が降りだす前には撤収しなければならないから、作業期間はほぼ夏場だけに限られる期間工のような仕事だった。
九月も半ばを過ぎると山頂付近はかなり冷え込んでくる。その年は特に秋の訪れが早く、ミゾレが降りだす悪天候が続いた。
「いつもより早いんだけど、もう今年の作業は終わりってことになったんですよ。それで道具類を近くの避難小屋に入れて、天候を見計らってヘリで下ろすことにしたんです」
その避難小屋は稜線近くにあり、登山者が普通に使っているものだった。ミゾレ混じりの雨の中を三人の男たちは小屋に辿り着いた。一人が戸に手を掛けたがびくともしない。
「何だこりゃあ、開かねーぞ」
凍りついた訳でもないのに戸は完全に固まっていて、叩こうが蹴ろうが一ミリも動かないのだ。中に入れなければ大変だ。
「もう必死ですよ。石持ってきてガンガン端のほうを叩いたり、持ってる鉄棒を何とか隙間に差しこんでね、三人がかりで少しずつこじ開けるようにして、やっとの思いで入れたんです。閉めるのも大変でしたがね」
小屋に入って安心した三人は、それぞれに食事の準備をし始めた。食事といってもカップラーメンとビスケットや菓子パンの類いである。それでも山男たちにとっては楽しい時間である。暖かな食事を済ませて一息入れる。外はかなり風が強く、相変わらずミゾレ模様の天気だった。
「今年は夏が短かったなあ、そう思わんか」
ここ二、三日ほど同じ話題だがそれもしょうがない、山の上なのだから。
「あれ? 何か聞こえませんか」
彼が真っ先に言った。
「何? 何か聞こえるか」
他の二人も耳を澄ます。しかし聞こえるのはビュービューという風の音と窓に打ちつける雨の音だった。
「何も聞こえんよ」
「ああ、何も……」
と言いかけて口をつぐむ。
“シャン……シャン”
風の音に混じって鈴の音が聞こえる気がした。
「鈴……か? あれは」
“シャン……シャン”
三人は黙ってその音を聞いていた。
“シャン……シャン”
段々と近づいてくるその音には聞き覚えがあった。
「これは……あれじゃないですか、山伏の人が持ってる杖」
錫杖(しゃくじょう)である。山伏が地面に杖を突くと上の輪がシャンと音を立てるのだ。
「ああ、確かにな。これは山伏の杖の音だ」
白山は信仰の山である。山岳仏教が古くから盛んな修験道の山なのだ。その山を修験者が歩いていても何ら不思議ではなかった。
しばらくすると、その音は小屋の前で止まった。どうやら入口付近に立っているようである。みんなが入口を注視していると……。
“シャン……シャン”
「また歩き始めたんですよ、それが小屋の周りをぐるっと歩いているんです」
修験者が小屋の周りを歩いているようだ。
“シャン……シャン”
「入れないんですかね」
力仕事に慣れた男が三人がかりでやっと開けられるような戸だ。開けられずに周りを歩いているに違いないと彼は考えた。
「開けてあげましょうか?」
と彼は提案をしたものの、体は動かなかった。
シャン……ほぼ小屋の周りを一周した錫杖の音がやんだ。全員固唾を呑んでいる。
恐ろしい静寂だった。
“ドンッ”
いきなり大きな音が小屋中に響き渡る。びっくりして天井を見上げた。
「跳んだ、跳び上がった。す、凄いですね。さすが修験者だ」
と少しふざけて言ったつもりだったが、声は震えていた。
“ミシッ、シャン……ミシッ、シャン”
錫杖の音は今度は屋根の上から聞こえる。修験者が屋根の上を歩き回っているのだ。いや、修験者であるかどうかは分からないが。
「しばらく屋根の上を歩いているんですよ。全員それを目で追いましたね。少ししてその音がやんだんです。ほっとしましたよ、ああ、いなくなったかなあって」
その時である。
「戸がね、あの三人がかりでもなかなか開かなかった戸がね、しゅって滑るように開いたんです」
ぱしっと全開した戸からはミゾレが凄い風とともに吹き込んできた。その瞬間、誰一人目を開けている者はいない。手を合わせていつの間にか全員で念仏を唱えていたのである。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。目をつぶった三人はぴしゃりと閉まる戸の音を聞き、風が吹き込まなくなったのが分かった。しかしすぐには誰も目を開けようとはしなかったのである。
(本記事は、ヤマケイ文庫『 山怪』を一部抜粋したものです。)

山怪 山人が語る不思議な話
| 著 | 田中康弘 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 880円(税込) |
プロフィール
田中康弘(たなか・やすひろ)
1959年、長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場、特にマタギ等の狩猟に関する取材多数。著作に、『シカ・イノシシ利用大全』(農文協)、『ニッポンの肉食 マタギから食肉処理施設まで』(筑摩書房)、『山怪 山人が語る不思議な話』シリーズ『鍛冶屋炎の仕事』『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』(山と溪谷社)などがある。
山怪シリーズ
現代の遠野物語として話題になった「山怪」シリーズ。 秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとから実話として聞いた、山の奇妙で怖ろしい体験談。
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