ヒマラヤ登山は私のライフワーク。日本人女性初8000m峰14サミッター渡邊直子さんに聞く【前編】

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2024年10月9日、看護師の渡邊直子さんがシシャパンマ(8027m)に登頂し、ヒマラヤ8000m峰14座完登を成し遂げた。日本人としては、2012年に達成したプロ登山家の竹内洋岳さん、渡邊さんと同時期にシシャパンマを登った写真家の石川直樹さんに次いで3人目。女性では日本初の快挙だ。「私は普通の看護師。ヒマラヤ登山は“休暇”みたいなもの」と語る渡邊さん。彼女が8000m峰に登り続けてきたのは、記録のためではなく、そこが「本当の自分に戻れる場所だから」だという。

文=谷山宏典、写真=渡邊直子

シシャパンマBC
2024年、シシャパンマ。登頂後、BCに戻ると多くの14サミッターが出迎えてくれた
2024年、シシャパンマ山頂での渡邊さん(中央)
渡邊直子(わたなべ・なおこ)
1981年、福岡県生まれ。幼い頃から、山好きだった母と地元の山を登ったり、森で遊んだり登山をしたりする企画に1人で参加していた。小学生になると子供たちだけのキャンプや登山を実施するNPO法人の活動に参加し、雪山登山、中国の無人島でのサバイバルキャンプ、パキスタンでの登山などを経験。2006年、24歳のときにNPO法人の創設者に声をかけられ、初の8000m峰登山として世界第6位のチョ・オユーに挑戦し、登頂した。以後、看護師として働きながら、8000m峰を登り続けてきた。

ヒマラヤは「本当の自分に戻るための大切な場所」

――14座完登への最後の1座であったシシャパンマは、登山許可が下りなかったり、ほかのチームの雪崩事故によって登山活動が中止になったりして、23年春・秋、24年春と連続して登れませんでした。昨秋やっと登頂できて、無事にBCまで戻ってきたとき、どんなお気持ちでしたか?

直前にマナスルを登っていたおかげで、シシャパンマでは高所順応をする必要がなかったんです。ベースキャンプ(BC)に入り、フィックスロープが張られるまでゆっくりできると思っていたら、急にサミットプッシュへ……という日程だったので、「あっという間に終わってしまった」というのが率直な感想ですね。

――直前にマナスルに登っていたんですか!?

SNSで「一緒に8000m峰に行きませんか?」と募集をしたら、連絡をくれた人がいて。その人のサポートで登ったんです。私自身は4回目の登頂でした。

なぜマナスルに行ったのかといえば、実はギリギリまでシシャパンマの登山許可がどうなるか、わからなくて。マナスルにいるとき、エージェントから「許可が出た」という連絡をもらい、マナスルを登った直後にシシャパンマに向かったんです。

――BC入りして、何日ぐらいで頂上へ?

BC入りしたのは9月30日で、登頂は10月9日ですが、できればもっと長くBCに滞在していたかったですね。というのも、今回のシシャパンマBCには14座完登がかかっている各国の有名登山家やシェルパたちが20人以上集まっていました。普段だったらあり得ない状況だったんです。中国政府がこれまで登山許可を出さなかったためなんですが、そんな一生に一度あるかないかの状況をもっと楽しみたかったなと。

――以前のインタビューで「(ヒマラヤが)好きだから登っている」と答えていますが、渡邊さんにとって8000m峰登山とは?

8000 m峰登山はライフワークであり、本当の自分に戻るために必要なものです。

私はこれまで、看護師として健診や病院・高齢者施設の夜勤で寝る間も惜しんで働いてきました。そこでためたお金をつぎ込んで、ヒマラヤに通い続けてきたんです。ヒマラヤ登山は私にとって休暇みたいなもの。自分が一番素直になれる場所であり、私が私でいるために不可欠なものなんです。

――では、14座は?

14座完登は、誰にでもできる、ただの記録です(笑)。私自身、14座を登るために8000m峰をめざしたわけじゃないし、そもそも登れるとも思っていませんでした。休暇で遊びに行く感覚で1座、1座登っていたら、いつの間にか数が増えていた、というだけのことです。

目的は登頂ではなく、ヒマラヤでの時間を楽しむため

――ヒマラヤに行くことが目的であれば、6000m峰、7000m峰の方が身体的にも金銭的にも負担が少なそうですが、なぜ8000m峰にこだわってきたのですか?

登山期間がより長くなるからです。私は登頂が目的ではなく、ヒマラヤでの生活を楽しむために行っているんです。山が大きければ、その分、登山期間も長くなるじゃないですか。だから、8000m峰なんです。登れるか、登れないかにはあまりこだわっていません。「登頂できたらラッキー」ぐらいの感覚でずっと8000m峰に通っていました。

シシャパンマBCのキッチンテント
2024年、シシャパンマBCのキッチンテントにて。渡邊にとって、こうしてシェルパたちと一緒に過ごす時間がヒマラヤ登山の大きな楽しみになっている

――たしかに、渡邊さんがヒマラヤに通い始めて10年ぐらいは途中で断念している登山も多いですね。

そうなんです。登頂できないと現地スタッフに文句を言ったり、怒ったりする人がいっぱいいますが、私は怒ったことは一度もないです。目的がそこじゃないので。だから、シェルパたちからは好かれていますよ(笑)。

――登る山はどうやって選んでいるのですか?

通い始めたころは、私から「この山に行きたい」と言うんじゃなくて、エージェントの方から「今回この山にたくさん人が行くから、直子もどう?」と勧めてもらって行っていました。あとは、知り合いになった海外の登山家から「自分も行くけど、一緒にどう?」と誘ってもらうこともあります。

だから、アンナプルナI峰やカンチェンジュンガは、技術も経験もぜんぜんないときに行ってしまい、シェルパや通りすがりの登山家に教えてもらいながらスキルアップしていきました。フィックスロープが足りなくなったり、ネパール大地震があったりして断念することもありましたが、どちらも3回目でやっと登れたんです。

――アンナプルナやカンチェンジュンガは14座の中では難しい山ですからね。

アンナプルナⅠ峰で思い出すのは、2回目のチャレンジのときですね。オーバーハング気味のところにフィックスロープが張られていて、私は自力で越えられず、上からシェルパに引き上げられ、うしろから韓国人の友達に押してもらって、やっとその壁を登れたんです。でも、そんな登り方をしてしまったことがすごく恥ずかしくて。

登頂できれば日本人女性としては初めてのことだったのですが、「こんな登り方じゃ、日本人女性初とは言えないな」と思って。それで2回目のアタックは、自分から「行かない」と言って、BCから下りたんです。

アンナプルナⅠ峰の急斜面
2015年、アンナプルナⅠ峰。フィックスロープを伝って雪壁状の急斜面を登る

――渡邊さんなりのこだわりがあったわけですね。

はい。その後、別の山で、初心者の外国人たちがシェルパに引っ張り上げられて登っている姿を見て、「これでもいいんだ」と思ったりもしましたが(笑)、やはり自分としてはできるだけ自分の力で登りたいと思ってやっています。19年にアンナプルナⅠ峰を登頂したときは自分の足でしっかりと登りましたよ。

――登頂が目的ではなかった渡邊さんが、なぜ14座完登をめざすことに?

コツコツと通い続けていたら19年までに7座登っており、周りから「7座登頂している日本人女性っていないんじゃない?」と言われて、調べたらそうだったので、自分にもできるのかなと思い始めたんです。

加えて、そのころ大富豪のお嬢様とか、スポンサーをいっぱいつけた10代、20代の子など、若い女性が1年に何座も8000m峰の登頂数を稼いでいて。私は自分のお金で20年近くかけて登ってきたのに、「最近登山を始めました」みたいな子たちには絶対に負けたくないな、と。

――それで火がついて、一気に登ってしまおうと?

ただ、そのためには相当な額の資金が必要で、看護師の仕事だけではどうやっても足りません。それで、それまではメディアに出ることに興味はなかったのですが、スポンサーや資金集めのためには名前を売らなければと、テレビ番組などのオファーを受けることにしました。また、ビームスなどいくつかの企業から支援を受けたり、クラウドファンディングやホームページで寄付を募ったりするようになったんです。

後編に続く

プロフィール

谷山宏典(たにやま・ひろのり)

ライター・編集者。1979年愛知県生まれ。明治大学山岳部出身で、ガッシャブルムI峰・Ⅱ峰などの登頂歴をもつ。著書に『穂高に遊ぶ 穂高岳山荘二代目主人 今田英雄の経営哲学』『鷹と生きる 鷹使い・松原英俊の半生』(ともに山と溪谷社)など、共著に『日本人とエベレスト 植村直己から栗城史多まで』(山と溪谷社)などがある。

登る人びと

憧れの頂をめざして登り続ける人たちをご紹介します。

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