なぜ1年で8000m峰6座を連続登頂できたのか。日本人女性初8000m峰14サミッター渡邊直子さんに聞く【後編】
2024年10月9日、看護師の渡邊直子さんがシシャパンマ(8027m)に登頂し、ヒマラヤ8000m峰14座完登を成し遂げた。日本人としては、2012年に達成したプロ登山家の竹内洋岳さん、渡邊さんと同時期にシシャパンマを登った写真家の石川直樹さんに次いで3人目。女性では日本初の快挙だ。インタビュー前編では、「8000m峰登山はライフワーク」と語る渡邊さんが、14座完登をめざしたきっかけなどについて語ってもらった。後編では、近年のヒマラヤ登山の裏事情を交えつつ、8000m峰の連続登頂を達成できた秘訣や今後の展望について聞いた。
文=谷山宏典、写真=渡邊直子
多様化、効率化が進む8000m峰登山の登り方
――14座完登をめざすことを決め、22年には6座を連続登頂しています。かつては1年で3座登ることを「ハットトリック」と呼び、困難な課題とされていたことを思うと、隔世の感があります。
BCまでヘリを利用して時間短縮を図るなど、短期間で登頂数を稼ぐための効率的な登り方は年々進化しています。高所順応の方法もさまざまで、BCからずっと酸素ボンベを吸いながら登って、順応行動を一切しないで登頂する隊も出てきています。
ヘリを使って上部キャンプにシェルパやロープを運び、下りながらフィックスロープを張っていった隊もありました。そのやり方は誰もやったことのない手法だったので周囲の反発を呼び、有名なシェルパの1人であるミンマGも猛烈に批判していました。
これまでになかった登り方がどんどん増えているし、これからもさらに増えていくと思います。
――とはいえ、登り方がどれだけ多様化、効率化しても、登るのは登山者自身ですよね。渡邊さんはご自身が8000m峰を連続登頂できた要因はなんだと考えていますか?
私は、8000m峰を登頂するにはなによりもマネジメント力が大事だと思っていて。高所に行けば、体は弱っていくし、食欲もなくなります。そんな過酷な状況下でも自分の健康管理をしっかりと行ない、高山病など体の不調に対しては適切に対処する。また、どのシェルパにサポートについてもらえば、登頂の可能性が高まるのか、ほかの隊のメンバーや動向も見ながら判断をする。そうやっていろいろ考えて、その都度ベストな判断や行動をしていくことが、登頂には欠かせないのかなと思います。
――1年で6座連続で登るのは、体への負担はどうでした?
体が極端に消耗するとかは、ほとんどなかったですね。
――体質的に高所に強いんでしょうか?
毎年のように登っているから、体が慣れてしまっているのかもしれません。ただ、高山病にまったくならないわけではなく、天気が急激に悪化したときなどは頭痛や吐き気などの症状は出ます。
――渡邊さんにとって連続登頂のなにが一番大変でした?
22年のときはいつもとは違うネパールのエージェントに登山の手配を頼んだのですが、その会社のマネジメントが最悪で。大変だったのは、その対応でしょうか。
パキスタンの4座(ナンガパルバット、ブロードピーク、ガッシャブルムⅠ峰、同Ⅱ峰)を登るために現地に着いたら、ネパールのエージェントからパキスタンのエージェントに必要な費用が送金されていないことが発覚したんです。でも、ネパールの会社は「うちは送った」の一点張りで。パキスタンの会社と交渉して、1座目のナンガパルバットはひとまずお金を立て替えてもらうかたちでなんとか登れたのですが、山から下りてきても依然としてネパールからの送金はありませんでした。
2座目のガッシャブルムⅡ峰は、私のガイド役のシェルパに「ダブル14」(14座を2回完登すること)の世界初記録がかかっており、再びパキスタンの会社が渋々ですがお金を立て替えてくれて、登ることができました。しかし、この時点でもネパールからの送金がなかったため、仕方なくそれまでのヒマラヤ登山でずっと使っていたネパールのエージェントに連絡をして、もろもろの手配をし直してもらい、3座目のブロードピークを登りました。
22年の登山では、あちこちに連絡したり、交渉したりで、登頂できるかどうかとは別の問題で、とにかく忙しかった印象が強く残っています。
――登山そのものより、エージェントとのやりとりに苦労したということですね。
登山でも想定外のことがありました。ガッシャブルムⅡ峰のとき、別の隊がフィックスロープを張ることになり、「俺たちのロープを使うなら、金を払え」「もし金を払わないなら、ロープを切るからな」と言われたので、その条件を飲んだのですが、彼らが途中で撤退してしまったんです。
――途中撤退なんて、あるんですか!?
ルート開拓をするための強靭なシェルパがいないチームだったんです。それで私のシェルパと相談したところ、彼は世界初のダブル14がかかった最後の山だったので、「一緒に行く人を集められたら行ける」と言う。幸い、最終キャンプ地(C3)には、ほかの隊の外国人山岳ガイドやシェルパたちもいたので、彼らを仲間に引き入れて、自分たちでラッセルやルート工作をして頂上をめざすことにしました。
アタックは嵐の中、休憩もせずに登り続けました。天気予報では、朝になったら快晴になるとのことだったので、それを信じての行動でした。フィックスロープもなかったので、かなり怖かったですね。最後の斜面だけは、一緒に登った外国人山岳ガイドとシェルパたちが今にもちぎれそうな細いロープを固定ロープとして張ってくれて、何とか無事に登頂できました。朝になると嵐もおさまって、無風快晴の最高の頂上でしたね。
ヒマラヤの楽しさを伝えていきたい
――8000m峰登山はライフワークとのことですが、これからはどのような関わり方をしていこうと?
自分の人生にとって一番大事な場所なので、これからも登り続けることは間違いないです。今後は自分が登るだけじゃなく、ヒマラヤや8000m峰登山に興味を持っている若い人たちに「私にもできたんだから、みんなも登れるよ」と伝えて、もっと気軽にヒマラヤに来てもらえるような活動をしていきたいです。24年の秋にマナスルに一緒に行った人も、「登るだけではない、楽しい経験ができた」と喜んでくれていました。
また、日本の子どもたちにヒマラヤに来てもらって、シェルパやシェルパの子供たちと一緒に生活するなど、いろんな体験ができる機会を提供できたらと思っています。
――次のステップに向けて、すでに動き出しているんですね。
はい。高所登山だけじゃなく、年末年始のヒマラヤトレッキングも企画していて。23年には9人、24年には20人が参加してくれました。
将来的にはネパールに住む予定でいます。私はネパールにいて、日本の人たちに遊びに来てもらう、ということができればなと。
――看護師のお仕事は? ネパールに住んだら、さすがにできないですよね。
看護師はずっとやってきたことなので、これからも続けていくつもりです。ネパールに住むようになったら、ときどき日本に帰ってきて出稼ぎですかね(笑)。
プロフィール
谷山宏典(たにやま・ひろのり)
ライター・編集者。1979年愛知県生まれ。明治大学山岳部出身で、ガッシャブルムI峰・Ⅱ峰などの登頂歴をもつ。著書に『穂高に遊ぶ 穂高岳山荘二代目主人 今田英雄の経営哲学』『鷹と生きる 鷹使い・松原英俊の半生』(ともに山と溪谷社)など、共著に『日本人とエベレスト 植村直己から栗城史多まで』(山と溪谷社)などがある。
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