101年前のエベレストの天気を再現。『そこに山があるから』……名言を残したマロリーは果たしてエベレスト頂上に辿り着いたのか?

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「そこに山があるから」の名言で知られる登山家ジョージ・マロリーは、果たしてエベレストの頂上にたどり着いたのか? NOAA(アメリカ海洋大気庁)による再解析データを使って101年前の気象状況を再現。気象面から登山史上最大の謎に迫る。

文・図版=大矢康裕

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皆様、山岳防災気象予報士の大矢です。2019年にこの連載を始めて、今回でちょうど6年、そして節目となる50回目の記事になります。今後も過去の遭難事故の解析とそこから得られる教訓を中心に投稿を続けていきたいと思いますので、何卒よろしくお願いいたします。

今回のテーマは、『そこに山があるから』という、かの有名な名言を残したジョージ・マロリーについてです。マロリーは1924年にエベレストの初登頂をめざしたものの、山頂付近で遭難して帰らぬ人となっています。果たしてエベレスト頂上にたどり着いたのか? については現在でも議論となっていますが、これについて考察してみたいと思います。

エベレスト初登頂の公式記録はイギリスのエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによってなされた1953年5月29日です。しかし、その29年前の1924年6月8日にジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンが初登頂を果たしていたのかもしれないという可能性がいまだに残っています。これは世界の登山史上で最大の謎のひとつであることは間違いありません。

そこで、NOAA(アメリカ海洋大気庁)による再解析データを使って101年前のエベレストの気象状況を再現し、山岳気象の観点からその謎に迫ってみたいと思います。

エベレストの雄姿(写真=PIXTA

 

エベレスト初登頂の登山史を振り返る

世界最高峰のエベレスト(標高8848m)は、ネパールと中国の国境にあって、英名はエベレスト、ネパール名はサガルマータ、中国名はチョモランマと呼ばれています。北極や南極の初制覇で後れを取ったイギリスは、エベレストを「第3の極地」として、大英帝国の威信をかけて1920年代から遠征隊を結成し初登頂をめざしていました。

ネパールが鎖国を解く1949年までは、エベレストはチベット(中国)からしかアタックできませんでした。1921年のイギリスの第1次遠征隊はチベットから入山し、北稜のノースコル(7020m)までのルートを確認しました。1922年の第2次遠征隊は北稜ルートを登り、北東稜の手前の標高8321mという当時の最高到達高度まで辿り着きましたが、悪天候や雪崩事故が発生したために登頂を断念しています。今回の記事の主人公であるジョージ・マロリーは,この第1次、第2次の両方に参加しています。

1924年の第3次遠征隊では、マロリー(当時37歳)はアンドリュー・アーヴィン(同22歳)とともに北稜ルートから北東稜に取り付いてエベレスト初登頂をめざしました。しかし頂上アタック中に2人は消息不明となり、エベレスト山中に姿を消してしまいました。

国民的ヒーローとなっていたマロリーの遭難は、当時のイギリス中に大きな衝撃を与えました。その後もイギリスは1938年の第7次遠征隊まで派遣しましたが、エベレスト初登頂を果たすことはできませんでした。

第二次世界大戦後の1949年以降は、チベット側は中国の支配下に置かれて閉鎖され、代わってネパール側からの入山が可能になり、イギリスだけでなく各国の登山隊がエベレストの初登頂を争うことになりました。

ウェスタン・クウムのアイスフォールの難所から、現在のメインルートとなっている南東稜からの登山ルートを開拓した後、1953年5月29日についにイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイが初登頂の栄誉に浴することになりました。なお、チベット側からは中国隊が1960年5月25日に北稜ルートによる初登頂に成功しています。

日本人による初登頂は1970年の日本隊の松浦輝夫と植村直己によって成し遂げられ、1975年には日本女子登山隊の田部井淳子が、女性として世界で初めてエベレストに登頂したのはご存じの方も多いと思います。

 

第3次遠征隊でのマロリーとアーヴィンの足取り

1924年の第3次遠征隊におけるマロリーの足取りを辿ってみましょう。6月6日にマロリーは、アーヴィンとともに北稜ルートの第4キャンプ(7000m付近)を出発し、第5キャンプ(7710m)、6月7日には第6キャンプ(8230m)に進みました。そして6月8日の早朝に北東稜に上がってエベレスト頂上をめざしました。当時マロリーが送った手紙によると、ここまでは天気に恵まれたようです。

2人をサポートすべく第6キャンプをめざしていたノエル・オデールは、同日12時50分ごろに空が突然晴れ渡り、エベレスト頂上が姿を現し、二人が北東稜のセカンド・ステップ(8600m付近)にたどり着くところを見たと語っています。

セカンド・ステップは北稜ルートの一番の難所で、上部がほぼ垂直の30mぐらいの岩壁です。現在では中国隊が設置したハシゴによって難易度は下がっていますが、マロリーの頃の登山装備で果たして登攀できたのかは否定的な意見(ラインホルト・メスナーなど)が多いです。ただし、マロリーが当時としては一流の登山技術をもっていたことは間違いないようです。

オデールが2人の姿を目撃した後は雲がエベレスト山頂付近を覆い、これが生きている2人の姿を見た最後となりました。オデールが14時に第6キャンプに着いたころは天候が悪化して風雪が強くなり、待っても2人が降りてこないため16時半に第6キャンプを後にして第4キャンプまで下山しています。

その夜は天気が回復して晴れていますが、2人の姿を見つけることはできませんでした。オデールは翌6月9日に第5キャンプ、6月10日には第6キャンプまで登って捜索しましたが手掛かりがなく、天候悪化の兆しが見えたため、ついに2人の捜索をあきらめて下山しています。

 

マロリーとアーヴィンの遺体と焦点のカメラの行方

マロリーの遺体は、1999年のマロリー遭難75周年に派遣された調査遠征隊によって、エベレスト北面の標高8160m付近で発見されました。頂上に至ったかどうかの大きな手掛かりとなるマロリーたちが持参したカメラは見つからず、いまだに発見されていません。

アーヴィンの遺体はこれまで見つかっていませんでしたが、2024年9月、ナショナル・ジオグラフィックのドキュメンタリー撮影チームが、エベレストの北面の下にあるロンブク氷河の中央部で登山靴、その中にアーヴィンの刺繍の入ったソックス、足の遺骨を発見したというニュースが大きな話題になりました。もしアーヴィンの遺体とともにカメラが発見されれば、エベレスト初登頂の歴史は変わるかもしれません。

⇒外部リンク: Remains of Andrew 'Sandy' Irvine believed to have been found on Everest(ナショナル・ジオグラフィック)

 

プレ・モンスーン(春)とポスト・モンスーン(秋)

気象庁のデータを使って、エベレストの麓にあるネパールのカトマンズにおける1982~2014年の月降水量と気温の平均値をグラフにまとめたものを図1に示します。夏になるとインド洋や南シナ海からアジア大陸に向かって大量の湿った空気が入るようになり、アジア大陸に雨季をもたらします。

図1. カトマンズの月降水量と気温(1982~2014年の平均値、気象庁データから筆者作成)

図1のとおり降水量が多い6月から9月が雨季に相当します。このインド洋や南シナ海から吹く湿った季節風をモンスーンと呼んでいます。そこから転じて、モンスーンがもたらす雨季についてもモンスーンと呼ぶようになりました。

モンスーンの前と後は晴れる日が多く、ヒマラヤ登山に適したシーズンで、それぞれプレ・モンスーン、ポスト・モンスーンと呼んでいます。6月に入るともうダメかというとそうではなく、年によっては6月上旬まで天気がよいこともあります。残りの12月から3月は冬季シーズンで、極寒と烈風のためヒマラヤ登山には厳しい時期となります。

 

NOAAの再解析データで再現した1924年6月8日12時(現地時間)の天気

まずは、オデールが最後にマロリーとアーヴィンを目撃した6月8日12時における現地の気象状況を、NOAA(アメリカ海洋大気庁)の再解析データを使って再現してみました。気圧が350hPaとなる高度を調査すると8590mであり、二人が登ったのを目撃したという証言が残っているセカンド・ステップとほぼ同じ高度になりました。気温は-18℃、風速は6m/sであり、エベレスト登山の気象条件としては非常によかったようです。

図2に6月8日の同時刻において、気圧が350hPa(高度約8600m)となる高さの風速(色塗り)と等高度線(実線、地上天気図の等圧線に相当)を再現した天気図を示します。

図2. 350hPa(高度約8600m)の風速の分布(色塗り)と等高度線 (NOAAの再解析データを使って筆者作成)

偏西風が流れている場所では風が強くなっていて、偏西風はイラン高原、インド北部、中国のチベット高原の上空を蛇行しながら、西から東に向かって吹いていることがわかります。ネパール東部にあるエベレスト付近は、偏西風の流れの南側となっていて風は弱い状況でした。

同様にして、さらに上空の150hPa(高度約14000m)の天気図を再現したものが図3です。この高度になると偏西風の風速が最大になるジェット気流が吹いており、ジェット気流はネパールの北側にあるチベット高原の上空を流れていました。ジェット気流の南側にはバングラデシュ付近を中心とする高気圧(図のH)があって、エベレストの上空は高気圧に覆われていたことがわかりました。この高気圧がまさに「チベット高気圧」です。

図3. 150hPa(高度約14000m)の風速の分布(色塗り)と等高度線 (NOAAの再解析データを使って筆者作成)

 

日本の酷暑の原因となるチベット高気圧がエベレストでは好天をもたらす

チベット高気圧は太平洋高気圧との合わせ技で日本の夏に酷暑をもたらす犯人の1人ですが、チベット高気圧の下では風が弱く、雲が発生しにくいため、プレ・モンスーンにおけるヒマラヤ登山では絶好のコンディションをもたらしてくれます。

太平洋高気圧は地上から300hPa(高度約10,000m)付近までの背の高い高気圧ですが、チベット高気圧はさらに高い300hPaから100hPa(高度約10,000mから17,000m)付近に現われる上空の高気圧です。ヒマラヤの8000m峰ではこのチベット高気圧の動向が登頂の成否を左右します。

前節で再現したマロリーとアーヴィンが行方不明になった当日の標高8600m付近の気温-18℃、風速6m/sが実際に6月上旬に起こりえる気象条件かどうか、近年、同様にエベレストがチベット高気圧に覆われる気圧配置になった2013年と2022年で検証してみました。

気象庁のGSM(全球予報モデル)のデータを使って解析した結果は、2013年6月9日18時(現地時間)のエベレストの標高8600m付近の気温-18℃、風速7m/sであり、2022年6月8日18時(現地時間)の標高8600mの気温-18℃、風速4m/sでした。したがって、チベット高気圧が実際にエベレストに好天をもたらしてくれることが検証できたのではないかと思います。

ちなみに前者の2013年は、5月23日に三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト世界最高齢登頂というすばらしい記録を打ち立てています。登頂時の9時のエベレスト頂上は無風快晴で、気温は-20℃だったそうです(出典:WEATHERNEWS SORA 【三浦豪太】山で本当に大切な装備とは何か!? )。そして、この時もエベレストは強い勢力のチベット高気圧に覆われていたことを確認することができました。

 

モンスーンの湿った空気はエベレストにどのように影響したのか

このようにエベレストがチベット高気圧に覆われていたとはいっても、マロリーたちが遭難した6月8日は時期的にはインド洋から非常に湿った空気が入るモンスーンの時期が始まりつつあります。熱帯の海からのモンスーンの湿った空気がどのように影響したのか確認するために、水蒸気の流れを再現したものを図4に示します。可降水量(色塗り)は水蒸気の量、矢印は925hPa(高度約750m)の風の流れを表してします。湿った空気は主に海表面・地表面から高度1000mまでの下層から入ってきます。

図4. 可降水量(色塗り)と925hPa(高度約750m)の風の流れ(NOAAの再解析データを使って筆者作成)

インド洋のベンガル湾から入った湿った空気は、インド東部やバングラデシュからネパール東部に向かっていますが、ネパール東部の前衛の山にさえぎられて、エベレスト付近まで到達する湿った空気はかなり減少していることがわかります。つまり、エベレストでは湿った空気の影響は限定的であり、午後からの谷風による上昇気流によって雲が発生して悪天になったとしても、上空のチベット高気圧に覆われているため一時的なものであったであろうと推定することができます。

 

気象面からの調査のまとめと総括

NOAAの再解析データによる解析結果と生存者の証言をまとめますと、マロリーとアーヴィンがエベレスト頂上に向かった6月8日は午後から一時的に天気が崩れたものの夜には回復して、6月10日までは大きな天候の悪化はなかったことになります。

ただし、ベンガル湾からの湿った空気が入ってくるモンスーン期が間近で、下から上がってくる雲とそれに伴う風雪によって時々視界がさえぎられたのではないかと思います。しかし悪天は一時的なものであり、充分に頂上を往復できる天候だったと推定されます。

となれば、マロリーたちの遭難は気象遭難ではなく、エベレスト頂上に向かう途中、あるいは頂上からの下山中に何らかのアクシデントに遭遇したことによって起きた可能性が高いということになります。今回は、この結論を生存者の証言だけではなく、NOAAの再解析データによってあらためて検証することができたと思います。

たとえ頂上に到達したとしても、生きて下山しなければ登頂とは呼ばないという厳しい意見もあります。しかし、なぜエベレストに登るのかと問われて、「Because it’s there.」(そこに山/エベレストがあるから)と答えたマロリーには、やはりエベレストの頂上を踏んだ姿がふさわしいと思っています。

マロリーの名前を知らない人でも、「そこに山があるから」というマロリーの名言には多くの人が共感していると思います。そして、多くの人を山に向かわせる理由の一つは、「そこに山があるから」なのではないでしょうか。

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プロフィール

大矢康裕

気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、山岳気象の研究や山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年と2024年には木村賞を受賞。2022年6月と2023年7月にNHKラジオ第一の「石丸謙二郎の山カフェ」、2023年12月に「世界の何だコレ!?ミステリー年末SP」などに出演。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社)

 ⇒Twitter 大矢康裕@山岳防災気象予報士
 ⇒ペンギンおやじのお天気ブログ

山岳気象遭難の真実~過去と未来を繋いで遭難事故をなくす~

登山と天気は切っても切れない関係だ。気象遭難を避けるためには、天気についてある程度の知識と理解は持ちたいもの。 ふだんから気象情報と山の天気について情報発信し続けている“山岳防災気象予報士”の大矢康裕氏が、山の天気のイロハをさまざまな角度から説明。 過去の遭難事故の貴重な教訓を掘り起こし、将来の気候変動によるリスクも踏まえて遭難事故を解説。

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