不世出の単独行登山家、加藤文太郎の命を奪った豪雪。原因は近年でも豪雪をもたらすJPCZだった
新田次郎の小説『孤高の人』のモデルとして知られる登山家の加藤文太郎。1936年に槍ヶ岳北鎌尾根でその生涯を閉じるが、そのとき何が起きていたのか? 過去のデータを丁寧に分析して浮かび上がってきたキーワードは「JPCZ」だった。
文・図版=大矢康裕
皆様、新年あけましておめでとうございます。酷暑から暖秋が一転して12月下旬から日本海側を中心に大雪となり、ようやく冬らしいシーズンになってきました。
3か月予報によると1月は平年より気温が低めで、日本海側では平年より雪が多くなる見通しで、正月明けも何度か寒波が来そうです。その後は、2月は平年並みの気温で、3月は全国的に平年より気温が高めの予報ですので、今シーズンの冬の天候は厳しくとも春の訪れは早そうです。
さて、今回は約90年前の北鎌尾根について取り上げたいと思います。北アルプスの燕岳から槍ヶ岳まで縦走する通称「表銀座」は多くの人に人気のコースですが、ここからは槍ヶ岳とそれに連なる北鎌尾根の雄姿を目の当たりにすることができます。
筆者にとっても、45年前に高校生だけの3人パーティで表銀座を縦走した時に目に焼き付いた北鎌尾根(写真1)は、いまだに忘れることはできません。
社会人になって、秋に北鎌沢右股から念願の北鎌尾根を登ることができましたが、無雪期でも冷や汗もののルートでした。増してや、積雪期の北鎌尾根は、かなりの技術と体力を持った熟達者のみが許されるルートといわれています。
この北鎌尾根で厳冬期のシーズンに帰らぬ人となった伝説の登山家は2人います。1人は「風雪のビバーク」の松濤明、もう一人は新田次郎の小説「孤高の人」の加藤文太郎です。
今から約90年前に北鎌尾根で帰らぬ人となった加藤文太郎が遭難した時の気象状況を鮮やかに再現できましたので、今回の記事ではその結果を紹介、現在にも生きる教訓について解説したいと思います。
加藤文太郎が遭難した経緯と当時の時代背景
加藤文太郎は1905年3月11日に兵庫県の新温泉町で生まれ、大正から昭和にかけて活躍し、冬季の槍ヶ岳単独登攀など多くの登山記録を残した登山家でした。加藤文太郎の山行の多くは単独行でしたが、すべてが単独行というわけではありません。
岩登りのエキスパートである吉田富久とパーティを組んで前穂高北尾根を登攀するなど、吉田富久とは数年来のパートナーでした。新田次郎の小説「孤高の人」では吉田富久と北鎌尾根に行ったことが遭難の原因のように書かれていますが、事実は違うようです。
加藤文太郎は1936年1月3日に吉田富久とともに肩の小屋(現在の槍ヶ岳山荘)から北鎌尾根に挑むも、そこで猛吹雪に遭って消息を絶ってしまいました。悪天候や豪雪のため捜索は困難を極め、2人の遺体が発見されたのは4カ月後の4月17日のことでした。
加藤文太郎は千天出合から天上沢側に500m登った付近、吉田富久はさらに200m上で発見されています。2人の発見された場所があまり離れていないこと、吉田富久の埋もれていた場所には目印としてピッケルが立っていたことから、最期まで2人の間は強い絆で結ばれていたことがわかります(北鎌尾根付近の地形図は図1参照)。
この事故が起きた1936年は、まだ第二次世界大戦が始まる前ですが、2月26日に青年将校が蜂起して元総理大臣の高橋是清を襲撃するなど、戦前のきな臭い時代でした。
一方、ベルリンオリンピックにおいて前畑秀子が200m平泳ぎで日本人女性として初めての金メダルを獲得したり、伝説の剛球投手の沢村栄治が日本プロ野球史上初めてのノーヒットノーランを達成したりするなどの明るい話題もありました。また登山界では、立教大学山岳部が日本初のヒマラヤ遠征で、インドのナンダ・コート(6861m)の初登頂に成功しています。
NOAAの再解析データで当時の気象状況を再現
1936年はまだ気象衛星やスーパーコンピュータを使った天気予報がない時代で、気象庁ではなく、その前身の中央気象台の職員たちが手書きの天気図を書いて日々の天気予報を行なっていました。
加藤文太郎が消息を絶って3日目の1月5日の6時の当時の中央気象台による天気図を図2に示します。西高東低の冬型気圧配置になっていて、東北日本海側から北陸や山陰にかけて雪になっていますが、北鎌尾根付近でどれくらい厳しい状況になっていたのかこの天気図ではわかりません。
そこで、NOAA(アメリカ海洋大気庁)による二十世紀再解析データを使って当時の天気図を詳細に再現してみました。NOAAの二十世紀再解析データには、当時の実際の観測記録を基にして現在のスーパーコンピュータを使って大気の状態を再現したデータがあります。それだけでは単なる数値でしかないのですが、そこから必要なデータを取り出して解析することによって、命を吹き込まれた天気図となります。
なお、二十世紀再解析データとはいっても1836年から21世紀までのデータがあります。そして、その主な解析事例の1つが、大きな反響を呼んだ「1902年の八甲田山雪中行軍遭難事故のコラム記事」です。
今回の加藤文太郎の遭難事故でも同じように地上天気図を再現すると、驚くべきことが判明しました。1月5日の9時の天気図を図3に示します。色分けは1時間降水量(高田測候所の観測記録で補正)、実線は等圧線、矢印は地表面の風です。降水量の単位mmをcmに変えると、おおよその1時間降雪量になります。
地上天気図では日本海にJPCZ(日本海寒気団収束帯)と呼ばれる収束線(破線)が明瞭に現われています。JPCZは日本海側の地方に豪雪災害をもたらすことが多く、最近では昨年(2024年)12月23日ごろや27日ごろの大雪の時にも出現しています。このJPCZとそれに伴う降水域が、日本海から北陸方面に向かっています。再解析データによって、これほど鮮やかに90年前のJPCZを再現できるとは思ってもいませんでした。
そもそもJPCZは、北朝鮮と中国の国境付近にある長白山脈(最高峰は白頭山2744m)の北側と南側を迂回した北西の季節風が、日本海で合流して収束する(ぶつかり合う)ことによって発生します。ぶつかり合った空気は、日本海があるため下には行けず、温かい日本海から水蒸気の供給を受けながら上昇することによって次々と雪雲ができます。これがJPCZによって豪雪になるメカニズムです。船舶による観測では、気温が氷点下の真冬でも水温が10℃以上もある日本海からは、大量の水蒸気がお風呂の湯気のように上っていくのが見えるそうです。
図4に同時刻の700hPa(高度約2900m)の天気図を示します。色分けと点線は700hPa気温、実線は700hPa等高度線(地上天気図の等圧線に相当)、矢羽根は700hPaの風です。北鎌尾根付近は、気温−21℃、西の風20m/sの非常に厳しい気象条件であることがわかります。
富士山測候所の記録では−19℃でしたので、再現した気温は正しいと思います。北鎌尾根付近は伝えられている通りの猛吹雪によって、視界はまったく利かない状況であったことが検証できました。
JPCZに加えて三八豪雪と同様の「三波型」の気圧配置
そして、どのくらいの豪雪だったのかについては、再解析データよりも新潟県の高田測候所による実際の観測記録を見た方が正確です。高田測候所は1921年 (大正10年) に設立されて2007年(平成19年)に廃止され(現在は無人の自動観測所となっています)ましたが、有人観測をしていたころの貴重な観測記録が残っています。
図5に1936年1月の高田測候所の手書きの降雪量と積雪量の観測記録を示します。単位の「糎」というのは、センチメートルと読む漢字で、時代の流れを感じさせます。
加藤文太郎が消息を絶つ前日の1月2日の最深積雪(1日の中で最大の積雪深さ)は45cmでしたが、1月6日には約140cmとなっていて、1mの新雪が積もっています。この高田測候所の手書きの観測記録を読み取ってグラフにしたものが図6です。縦棒は降雪量、実線は最深積雪となります。
加藤文太郎が1月3日に消息を絶った後、6日までに大量の雪が積もり、その後も14日以降に再び冬型気圧配置が強まって22日にかけて積雪が増えたことがわかります。このような大量の積雪があったため、加藤文太郎たちの遺体は雪の中に深く埋もれていまい、同年4月17日まで発見されることはなかったのです。
では、なぜこのような豪雪になったのでしょうか。今シーズン(2024-2025年)の冬が久しぶりの寒冬なのは、太平洋東部の赤道域の海水温が低くなるラニーニャ現象が影響していると考えられます。逆にエルニーニョ現象が発生すると暖冬になることが多いです。しかし、1936年はラニーニャ現象もエルニーニョ現象も発生していない年でした。では、なにが豪雪の原因となったのでしょうか。
その答えは北極を中心とする上空の気圧配置にありました。図7にNOAAの再解析データを使って再現した同時刻の北半球500hPa天気図を示します。色分けは500hPa気温、実線は500hPa等高度線です。北極の寒気が、欧州、北米、アジアの三方向に放出されている様子がわかると思います。これが「三波型」と呼ばれる気圧配置です。
コラム記事には掲載していませんが、実は1963年(昭和38年)1月の薬師岳遭難事故の時もこの「三波型」の気圧配置になっていました。1963年は三八豪雪が起きた年です。1962/1963年の冬も、ラニーニャ現象は起きていませんでした。ともに寒波や豪雪の原因はラニーニャ現象だけではないということを示すよい事例と思います。
気候変動があってもJPCZによる豪雪のリスクは残る
それでは気候変動の中で将来の日本海側の山岳の雪はどうなっていくのでしょうか。それを知るために、舞鶴(京都府)の最深積雪の推移を調べてグラフにしてみました。舞鶴を選んだのは、1948年からの最深積雪の観測記録が残っていること、地形的に湾状になっていて温かい対馬暖流の影響を受けにくく、日本海側で中部山岳に近い他の気象庁観測点より雪になりやすいため、中部山岳の日本海側における最深積雪の推移に近いと考えられるためです。
図8に結果を示します。だいたい5~10年に一回の頻度で大雪になっていることが読み取れます。そのうち70cmを超える最深積雪は観測記録の期間の後半に4回起きていることがわかります。少なくとも最近の2012、2022年の2回はJPCZによる大雪であることを気象衛星画像と地上天気図で確認できています。それ以前の1984、2000年も気象庁JRA-55の再解析データを使って地上天気図を解析すると、やはりJPCZによる大雪で間違いなさそうです。
図8を読むと、平均値では100年あたり3cmの割合で最深積雪が減少する傾向ですが、日本海側の山岳では将来もJPCZによる豪雪リスクが残ることを警告していると思います。暖冬シーズンに豪雪が起きて行動不能になり全員が生還した2004年2月の大長山遭難事故の事例も、JPCZが豪雪の原因でした。将来も山岳では豪雪に対して決して油断してはならないということが、今回調査による最大の教訓と思います。
プロフィール
大矢康裕
気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、山岳気象の研究や山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年と2024年には木村賞を受賞。2022年6月と2023年7月にNHKラジオ第一の「石丸謙二郎の山カフェ」、2023年12月に「世界の何だコレ!?ミステリー年末SP」などに出演。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社)
山岳気象遭難の真実~過去と未来を繋いで遭難事故をなくす~
登山と天気は切っても切れない関係だ。気象遭難を避けるためには、天気についてある程度の知識と理解は持ちたいもの。 ふだんから気象情報と山の天気について情報発信し続けている“山岳防災気象予報士”の大矢康裕氏が、山の天気のイロハをさまざまな角度から説明。 過去の遭難事故の貴重な教訓を掘り起こし、将来の気候変動によるリスクも踏まえて遭難事故を解説。
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