【書評】日本画の巨匠、登山家としての横顔と足跡『槍とカシミール 日本画家 石崎光瑤の山旅』

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評者=斎藤郁夫

大正から昭和前期にかけて活躍した日本画家、石崎光瑤の生誕140年を記念する展覧会が、昨年から日本各地の美術館を巡回している。この絶好のタイミングで出版された本書の内容は、「光瑤の山旅のうち、槍ヶ岳・白山・カシミールヒマラヤの3つを中心に、その足跡を丹念に追った」ものだ。とりわけ槍ヶ岳とカシミールの登山は光瑤の「人生に影響を与えた山旅」とみなされており、このことに本書の題名も因むようだ。

登山家としての光瑤は、1909年、民間人として初めて剱岳登頂を成し遂げ、有名な「剱岳の絶巓(遠景は白馬連峰)」を撮影した人物として知られている。天候に恵まれたこの山行に対し、翌10年の槍ヶ岳登山は、風雨をついて山頂に達しながらも、写真撮影はままならなかったようだ。そもそもこの山行は富山から出発し、立山、針ノ木峠を越えて大町に出て、馬車と汽車で松本へ向かい、島々から徳本峠を越えて上高地に入り、槍沢をつめて登頂をめざすという「往昔の行者の荒行」にも似た大胆な企てだった。多大な時間と労力を費やし、かろうじて登頂を果たしたうれしさの半面、夢に思い描いていた山頂からの視界が全く遮られてしまったことを光瑤は「千歳の恨事」と記している。そしてこの山行を機に5年にわたって登山に集中した時代に区切りをつけ、一時離れていた竹内栖鳳の画塾に戻り、絵の修業を再開する。

それから6年後の16年11月、熱帯の美しい動植物を見ること、ヒマラヤの巨峰を望むことなどを目的に、光瑤はインドに渡った。旅の最終盤、17年5月4日、光瑤はカシミール地方の「マハデュム峰」(3966m)に日本人として初めて登頂する。続いて「シシャナーグ峰」をめざし、5月14日、シシュナグ湖付近の最終宿営地に到着している。光瑤のいう「シシャナーグ峰」とは、そこから南に見える標高約5000mの「クニールハヤン」と「コーエヌール」のことらしい。しかし風雪と雪崩の危険により登頂を断念、5月19日に下山した。失敗の原因を光瑤は「季を無視した自分の計画」にあったと記している。だがインドの旅での見聞は、帰国後のめざましい画業の充実に結実する。

このふたつの山旅の様子を、著者は光瑤自身の文章と写真や地図を援用し、詳細に解き明かそうとする。そのあまり、かなり主観的な叙述も散見されるが、山での光瑤の姿を浮き彫りにしたことは画期的であり、読み応え充分だった。

一読後、たとえ失敗に終わったにせよ、頂上をめざして最善を尽くした登山家の姿は、「自己を欺かざる会心の作品」をめざして、ひたすら精進を重ねた画家の姿と、みごとな相似形をなしていることに思い至った。夕空に細い三日月をみつけたときのように、ちょっと清々しい気分になった。

『槍とカシミール 日本画家 石崎光瑤の山旅る』

槍とカシミール
日本画家 石崎光瑤の山旅

田中勇人
発行 パブファンセルフ
価格 2,580円(税込)
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田中勇人

1962年生まれ。一橋大学商学部卒業。会社員。2011年から、明治末期から大正中期までの近代史を研究。主な調査対象は、唱歌、童謡、児童雑誌のほか、立山・剱岳登山や剱岳の測量、立山新道、地形図など。

評者

斎藤郁夫

1958年生まれ。山口県立美術館元副館長。現在、香月泰男美術館館長。高校時代から登山を始める。2019年から3年間、『山と溪谷』にて「山を描いた画家たち」を連載。

山と溪谷2025年5月号より転載)

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