第1回 山が嫌い
長野県と岐阜県の県境に位置する乗鞍岳の山小屋「冷泉小屋」(れいせんごや)。その名前はすぐ脇を流れる“温泉”ならぬ硫黄冷泉に由来している。昭和6年(1931年)に創業後、16年間のクローズ期間を経て、2022年7月にリニューアルオープンした、そのリニューアルのストーリー。山登りしない。キャンプしない。アウトドアに興味がない。山が嫌い。海が好き。そんな村田実樹さんがある日突然、山小屋の女将になったお話。
文・写真=村田実樹
みなさま初めまして。
私は乗鞍岳(のりくらだけ)の2100mの中腹にある山小屋「冷泉小屋」を夫と経営している村田実樹と申します。東京で広告業界に長年いた私たちが、ひょんなことから山小屋を経営することとなりました。私自身は山が好きでもないのに、そういう流れとなり、本人が一番ハテナなのですが、この世での役目を終える時に「ああ、そういうことだったのか……」と腑に落ちる日が来ることを願って、日々翻弄されながら生きています。そんな私の、過酷で、ポカンで、笑える物語を書いていこうと思います。
*
山と私との関係は幼少期に遡る。実家のアルバムには、まだよちよち歩きの私を父がおぶって登山する写真がある。父は大学のワンゲル出身だった。そのため小さい頃から家族でなにかと山登りをしていた。小学生の頃、定年退職した祖父が退職金で八ヶ岳の山の中に別荘を買った。そうするとさらに山に登る回数は増えた。
きつい、つまんない。
そのころから山が嫌いである。
毎年夏には件の別荘に家族で行き、従兄弟たちと遊んで過ごした。
虫取り、川遊び、押し花、そして山登りだ。前3者はまあいいが、山登りは、きつい、疲れる、つまんない。時々、持病の喘息も出た。朝晩の寒暖差から、山に登らずとも喘息がしばしば出て、夜中に救急病院に何度も運ばれた。いい思い出がさほどないので、その別荘にもそのうち行かなくなったし、反抗期も相まって山登りはしなくなった。
大人になって妹とオーストラリアのエアーズロック(2019年以降、登山禁止)に登ったが、喘息が出て途中で降りてきた。世界遺産としてはすばらしい場所だったが、その時も登ることは楽しくはなかった。
まあともかく山に対する感情がほぼない。きれいだなあとか、高いなあとかは思うけれど。
その感情は大人になるまで続き、旅行の時は何かと海がある国に引き寄せられた。海の雄大さ、日の出や夕暮れの美しさ、波の音、砂浜、すべてが好きだった。喘息なので海の底へ行くことはできなかったのだが、ビーチから眺めているだけで充分だった。私の実家は横浜市の戸塚近辺なのだが、高校時代や浪人の時に友達と遊んだのは鎌倉や逗子、葉山、江の島の海だった。サザンの曲と海がセットの青春時代だった。
いつか海のそばに住みたい。そんな夢を抱くのも自然の流れだった。
5年ほど前、鎌倉で暮らすかもしれない流れが来た。
言わずと知れた観光地で住みづらいかもしれなかったが、いい物件があったのだ。海からは少し離れたところだったが、建築家・吉村順三のお弟子さんが建てたらしい家が売りに出ていた。築年数は50年ほど。自分より年上だが、昭和の当時にしてみればかなり斬新なデザインの家だった。古くて修理すべき箇所は多くあったが、ミッドセンチュリーなデザインと、ちょうどいい広さ、「鎌倉」という立地に文句はなかった。夫を伴い何度も訪れ、買う方向に近づいていった。とはいえ古い物件。慎重な主人は「非破壊検査」という構造の検査をしたいと不動産会社に注文した。文字通り壊さずして構造の検査をするのだ。
「非破壊検査」が終わり、雨漏りなどはあったのだが構造は問題なく、屋根と天井の修理をすればよいとの結果だった。そうだよねー、ヴィンテージだしねー、でも価値あるよねー、とゴールへ向かって最終コーナーを曲がる寸前の私に夫が言った。
「リノベ代もかなりかかるし、立地も不便だし、鎌倉混むし、残念だけどこの物件はやめよう」
えーーーーーーーーーーー。
いやいや結構乗り気だったよね、お金かけて検査したよね!!
リノベイメージもうできちゃってるし、なんなら友達に買うって言っちゃったし、鎌倉市民になりたいんだよー!!(涙)
実はその時、夫がすでに「冷泉小屋」にコンタクトを取っていることを私はまだ知らなかった。
続く。
オットの独り言
いやー、鎌倉のあの物件の購入は正直なかったですね。駅から遠い上に、ちゃんとリノベしたらもう一軒分くらいかかりそうだったので。妻はもともと「こうだ」と思うと突進していってしまう性質なので、松本でも、これはないなと僕が思う物件に何回か突進してました。一軒家に住みたいという気持ちが強かったんですね。
この記事に登場する山
プロフィール
村田実樹(むらた・みき)
冷泉小屋女将、ALPS OUTDOOR SUMMIT理事、コミュケーションデザイナー、クリエイティブディレクター。広告会社でクリエイティブやコミュニケーションデザインの経験を積み、独立。株式会社クロールを設立。2021年に松本へ拠点を移し、冷泉小屋の経営を開始。冷泉小屋では運営、料理、PRを担当している。乗鞍岳には一度も登っていないことは内緒の話。山小屋でおいしいワインを飲むのが至福の時間。アウトドアイベント「ALPS OUTDOOR SUMMIT」も主催している。オフシーズンは従来のコミュニケーションの仕事に従事。
山嫌いが山小屋の女将に 〜乗鞍岳冷泉小屋ダイアリー〜
長野県と岐阜県の県境に位置する乗鞍岳の山小屋「冷泉小屋」(れいせんごや)。その名前はすぐ脇を流れる“温泉”ならぬ硫黄冷泉に由来している。昭和6年(1931年)に創業後、16年間のクローズ期間を経て、2022年7月にリニューアルオープンした、そのリニューアルのストーリー。山登りしない。キャンプしない。アウトドアに興味がない。山が嫌い。海が好き。そんな村田実樹さんがある日突然、山小屋の女将になったお話。
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