第6回 みちこのカレーパン

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長野県と岐阜県の県境に位置する乗鞍岳の山小屋「冷泉小屋」(れいせんごや)。その名前はすぐ脇を流れる“温泉”ならぬ硫黄冷泉に由来している。昭和6年(1931年)に創業後、16年間のクローズ期間を経て、2022年7月にリニューアルオープンした、そのリニューアルのストーリー。山登りしない。キャンプしない。アウトドアに興味がない。山が嫌い。海が好き。そんな村田実樹さんがある日突然、山小屋の女将になったお話。

文・写真=村田実樹

美しい空の景色を堪能
外はカリカリ、生地がもちもち。最高のおいしさです

山小屋が始まって2年目だっただろうか。

そのころ山小屋のカフェではカレーとおにぎりを出していた。いわゆる日本風の市販のルーを使ったチキンカレーやポークカレー。おにぎりは梅と明太子、鮭。まあ、いたって普通のランチである。そのころはワンオペ地獄だったので(その話はまた今度)、工数少なく、でもおいしく、をめざしていた。これ以上ランチの種類を増やすことは無理だったし、これ以上面倒な工程があるメニューも無理だった。

ある日、安曇野に住む義理の母のところへ夫と出かけた。ちょうど山小屋のカフェの話をしていたときに義理の母が一言。

「カレーパンなんてどうかしら?」
「え? カレーパン??」

本題に入る前に義理の母の話をしよう。

母は当時85歳くらい。結婚した当時から比べるともうだいぶ年をとった。料理が大好きで、今でも日々研究を重ねている。遊びに行くたびにおいしいごはんを用意して待っていてくれる。時には実験の成果も披露してくれる。お正月も豪華なおせちを作ってくれる。亡くなった料理好きの私の祖母に重なるところがある。夫も幼いころからその母の手料理を食べており、味にはうるさいというか、おいしい味がわかる大人に成長した。

母は小さいころからパンやお菓子も作っていた。「おしりパン」という小さなプリッとした形のパンは夫の思い出のパンらしい。ほかにもあんぱんやクリームパン、クッキーやケーキを母はよく作っていたようだ。

冷泉小屋開業の初年度は「みちこのクッキー」と名付けた、素朴でアーモンドスライスが入ったクッキーを販売したこともあった。それは人気が高かった。そんな小麦粉系のラインナップのなかにカレーパンがあった。

揚げたてのカレーパンはみんなうれしいんじゃないかしら? そんな思いつきから、母はカレーパンを提案した。

いやいや、そんなの私たちじゃ無理でしょ?と思ったけれど、母が作ってくれて、山小屋で卵とパン粉をつけて揚げるだけの状態で渡してくれるという。それならできるかも。となり、晴れて「みちこのカレーパン」が誕生した。

具はビーフカレー。それを発酵した生地に入れて包み、蒸す。ここまで仕込んで納品される。注文が入ると、卵にくぐらせてパン粉をつけて揚げる。揚げるのは夫の仕事だ。

美しい空の景色を堪能
みちこ的に今までのレシピは具がドロドロになるのが嫌だった模様。今回初めてのレシピは長年の悩みを吹き飛ばす作り方だそうだ

母と子の共同作業で出来上がる「みちこのカレーパン」は、爆発的に売れた。揚げたての熱々のカレーパンは登山者やロードバイク乗りの疲れた体にヒットした。テラス席が揚げ場となり、夫はそこに居っぱなしになるときもあった。「みちこのカレーパンありますか?」と聞いてくるお客様も増えた。

ちょっぴり甘めの生地にピリッと辛いビーフカレー、サクサク&熱々の食感。どこか懐かしさのあるカレーパンは今や冷泉小屋の名物になった感じだ。秋口から始める「みちこのカレーパン」、ぜひ来年食べに来てくださいね。

そんな母みちこは来年89歳になる。いまだ現役。長生きしてほしい。

オットの独り言

母は自分のクッキーがほめられてうれしかったから、もっとほめられたくてカレーパンを提案してきたのかな(笑)。最近は大きさや形状がバラバラになることも多くなってきたので、生地から中のカレーまでぼくが作っていますが、レシピは母のものなので変わらず「みちこのカレーパン」として出しています。機材が実家にしかなく、月に1、2回安曇野の実家にカレーパンを作りに行くのが高齢の両親のいい様子うかがいになっています。

この記事に登場する山

岐阜県 長野県 / 飛騨山脈南部

乗鞍岳 標高 3,026m

 飛騨側から眺めた山容が、馬の鞍に似ているところから「鞍ヶ峰(くらがね)」と名づけられ、それが乗鞍岳となった。北アルプスの中で最も大きな山容をもち、裾野を長く引く優美な姿は、昔から飛騨人にとってシンボルとして親しまれてきた。  記録によれば、乗鞍岳は今から1万年前まで噴火していた、とある。5個ないし6個の火山錐が集まった集合火山で、四ツ岳と大丹生岳、恵比須岳、富士見岳、権現岳(剣ヶ峰)などの火山錐が、北から南へと並び、最後の噴火でできた火口湖が、頂上剣ヶ峰とその直下の権現池である。また、山頂部一帯は数kmにわたっていくつかの火口湖、山上台地などが形成され、緑濃いハイマツ帯の間には夏でも豊富な残雪を残し、彩り鮮やかな高山植物とともに、乗鞍岳の雄大で美しい景観をつくり出している。  開山は大同2年(807)の田村将軍と伝えられるが、飛騨側からは天和年間(1680年代)に円空上人が平湯から登ったのが最初で、明治年代には近代登山の先駆者ガウランドやウエストンも登っている。円空上人や木食(もくじき)上人など行者の錬行(れんぎよう)登山もあるが、この山は、御岳や白山と異なって比較的宗教的ムードが稀薄な山であったのは、山容が穏和であり、地理的な条件が悪いことによるものであろう。近代登山幕開け以前は、地元の村人にとっては資源採掘や狩猟の山であり、雨乞い、豊作祈願のための生活の山であった。  明治末期から大正中期にかけては、平湯大滝、平湯峠、旗鉾、大尾根、子ノ原、青屋、上ガ洞、阿多野、野麦などから登山道が開かれ、また信州側からも番所(ばんどこ)、白骨(しらほね)、沢渡(さわんど)、前川渡からの道がつけられた。  だが、乗鞍岳がクローズアップされてきたのは、近代登山が始まってからであり、大衆化したのは太平洋戦争後である。旧陸軍が山頂近くの畳平に航空研究所を建設し、昭和18年には、平湯峠から自動車道路を開発した。やがて敗戦となり、この道路はバス道路に転用され、昭和23年には、高山から標高2700mの畳平まで登山バスが運行されるようになった。さらに昭和48年には乗鞍スカイラインが完成したことにより、マイカー登山ができるようになった。特に夏の最盛期には、頂上剣ヶ峰まで約1時間で登れる手軽さから、畳平周辺は登山者や観光客であふれ、都会の雑踏と変わらないありさまである。 また、摩利支天岳付近には、東京天文台コロナ観側所や宇宙線研究所なども建設された。  しかし、乗鞍岳は壮大な山である。昔の登山道の多くは今も健在で、池塘あり、滝あり、湿原あり、その変化と趣のある道は今でも無尽に存在し、その魅力はいささかも失われていない。  ※環境保護のため、乗鞍スカイライン(平湯-畳平間)、乗鞍エコーライン(乗鞍高原・三本滝-畳平間)は平成15年(2003年)からマイカー規制を実施しており、畳平へは、途中でシャトルバスに乗り換える必要がある。

プロフィール

村田実樹(むらた・みき)

冷泉小屋女将、ALPS OUTDOOR SUMMIT理事、コミュケーションデザイナー、クリエイティブディレクター。広告会社でクリエイティブやコミュニケーションデザインの経験を積み、独立。株式会社クロールを設立。2021年に松本へ拠点を移し、冷泉小屋の経営を開始。冷泉小屋では運営、料理、PRを担当している。乗鞍岳には一度も登っていないことは内緒の話。山小屋でおいしいワインを飲むのが至福の時間。アウトドアイベント「ALPS OUTDOOR SUMMIT」も主催している。オフシーズンは従来のコミュニケーションの仕事に従事。

山嫌いが山小屋の女将に 〜乗鞍岳冷泉小屋ダイアリー〜

長野県と岐阜県の県境に位置する乗鞍岳の山小屋「冷泉小屋」(れいせんごや)。その名前はすぐ脇を流れる“温泉”ならぬ硫黄冷泉に由来している。昭和6年(1931年)に創業後、16年間のクローズ期間を経て、2022年7月にリニューアルオープンした、そのリニューアルのストーリー。山登りしない。キャンプしない。アウトドアに興味がない。山が嫌い。海が好き。そんな村田実樹さんがある日突然、山小屋の女将になったお話。

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