【書評】山とともに65年記憶の山をつづって『そうだ、山に行こう』

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評者=木元康晴

私が初めて『山と溪谷』を購入したのは、1988年の秋だった。まだ山の知識が皆無の初心者だったので、土地勘のないエリアのコースガイドや、使い方のわからない装備の解説が並ぶ誌面を見て、少し途方に暮れた。しかしその中に一つだけ、親しみやすさを感じる文章が載っているのを見つけた。タイトルは「山の劇場」というもので、現在も本誌に、「ふたたび山へ」と題したエッセイを連載している、イラストレーター・沢野ひとし氏による連載記事だった。

記事の内容は山の紀行文で、文章が読みやすいだけでなく、実際の山登りがどのようなものなのかを、わかりやすく伝えてくれてもいた。めざす山の選び方、準備の仕方、歩き方や山の様子などがさらりと、しかしとても的確に記されていた。登山の入口に立ったばかりの私にとっては、実践的なテキストとも思えたのだ。現在連載中の「ふたたび山へ」を、同じような思いで読んでいる人も多いのではないだろうか?

その沢野氏の最新の著書である本書は、2023年の春に休刊になった、白山書房の『山の本』という山岳雑誌に連載されていた、「山の雑記帳」を中心にまとめた一冊だ。第1章「思い出の山」から始まる6つの章に、全部で49篇の文章が収録されている。

文章の多くを占めるのは、やはり山の紀行文だ。大学生のときにアルバイトで登ったという新潟の弥彦山に始まり、仕事仲間との気楽な山登りや海外遠征、お孫さんと一緒の低山歩きまでが記されていて多彩だ。65年以上の期間に及ぶこの紀行文は、単に個人的な山行記録ではなく、昭和から平成、令和へ続く登山文化の一端を伝える、貴重なものにも思える。

これらには登山の描写だけでなく、同行したご家族とのやりとりや友人知人との会話も、優しい筆致で生き生きと描写されている。さらに当時の世相と現代との比較や、山の歴史や文化、安全登山に対する提言までが記されている。

そしてご自身の山へ向かう姿勢や、生活態度を常に顧みる思いまでが、味わい深い文章でつづられている。読んでいて心地よいだけでなく、沢野氏と自分とを重ね合わせて、さまざまなことを考えさせられるのだ。この、記される内容への共感にとどまらず、内省的な思索の世界へと誘ってくれることが、40年にもわたって多くの読者を惹きつけ続ける、沢野氏の山岳紀行文の魅力なのだろう。

本書で特に心に残ったのは、亡くなった山の友への思いを記した第3章「別れの山」だった。私も年齢を重ねるにつれ、同年代の山仲間の訃報に接することが増えてやるせない思いを感じることが多いし、体の衰えも感じるようになってきた。そのような状態での、人生の残り時間の過ごし方を考えるためのヒントがあると感じた。

そうだ、山に行こう

そうだ、山に行こう

沢野ひとし
発行 山百年舎
価格 2,200円(税込)
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沢野ひとし

1944年生まれ。イラストレーター、エッセイスト。山に関する『人生のことはすべて山に学んだ』『山の帰り道』(ともに角川文庫)などのほか、近著のジジイ四部作(『ジジイの片づけ』『ジジイの台所』『ジジイの文房具』いずれも集英社クリエイティブ、『ジジイの昭和絵日記』文藝春秋)も話題。

評者

木元康晴

日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅢ。東京都山岳連盟 海外委員長。著書に『山のABC 山の安全管理術』『IT時代の山岳遭難』(ともに山と溪谷社)など。

山と溪谷2025年8月号より転載)

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