待ちに待った旅の再開。山形県・神室山から、北東北の残り16座へ。田中陽希さん旅先インタビュー第27弾
新型コロナウイルスの影響を避け、4月中旬から3ヶ月、山形県酒田市にて自粛生活をしていた田中陽希さん。日本三百名山の旅を再開させた。東北地方の残り16座のうち、8月下旬までの11座の山行を振り返る。
- 再開1座目の神室山、5年前と同じ日に!? 三百名山の旅のきっかけ、焼石岳
- 岩手県内を東へ。「山の日」は、三百名山の五葉山に登り、震災後初めて三陸海岸を歩く
- 早池峰山からのハードな縦走路。岩手山は天気よく大展望に
- 八幡平からは連日登山で一気に。5年前、暴風雨だった秋田駒では…
7月17日、ようやく再出発することができました。新型コロナウイルスの拡大が落ち着き、各地域とも県をまたいだ移動が認められるようになったものの、長雨によって、さらに2週間くらい延期しての出発になりました。
金山町から、金山川の源流にある神室山へ向かっていきました。すっかり見慣れた鳥海山や庄内平野の田園風景、酒田市から旅立つ寂しさを感じていましたし、周辺のみなさんへの感謝の気持ちを持って出発、「必ずまた戻ってくる場所」のひとつなりました。
編集部注:日記には「少しずつ小さくなる町を背に、真室川町(まむろがわまち)へと続く峠道を力強く歩いた。もう、前に進んでもこの道を引き返すことがないと思うと寂しくもあった」と記していた
再開1座目の神室山、5年前と同じ日に!? 三百名山の旅のきっかけ、焼石岳
7月20日、いよいよ再開1座目、神室山に登る日を迎えました。
登山は3ヶ月ぶり。こんなに間が空いたことはなかった。ランニングをしていたので、体力は落ちていなかったけど、山を登る筋力は落ちて、お尻や足首周りの筋肉が減ってしまったと感じました。
また、4月の鳥海山が残雪のスキー登山で、次が神室山。いきなり、今年初めての「夏山」になりました。
節目の260座目となった神室山ですが、再開の1座目としては、よいタイミングに登れたと思いましたし、神が住む山、神の家というように、東西南北に優しさを感じる山並みが広がっているのを感じました。
山形県側から秋田県側へ縦走し、二百名山のときに神楽で祈願してくれた秋田側の役内集落へ立ち寄りました。そこで、自分が残した色紙を見たのですが、2015年もまったく同じ7月20日に登っていたことがわかりました。まったくの偶然で、驚きました。
ところが、海の日と、特別祭日の連休中、湯沢市の宿泊キャンペーンによって先々の宿がみな満室状態になって移動ができないことが判明しました。秋ノ宮温泉郷で3日の停滞となりました。天候でも災害でもなく進めないのは初めてでした。停滞後は、小安峡温泉に移動し、前回立ち寄り湯をしなかった泥湯温泉へも行きました。
次の栗駒山にむけて、7月25日は、岩手県境に近い秋田県側の宿まで、じわじわと上り6%、標高1000mまでのロードを、走らずに歩きで進みました。
栗駒山へは、前回と違うルートを、良い天気の日に登りたい、という思いが強く、天気予報が悪かった7月26日は、登らない、という判断をしました。
しかし、雨が降ることはなく・・・。栗駒山から下山して泊まるはずだった、300m先の須川温泉の宿に、移動しました。
天気は回復し、もんもんとして過ごす
前日まで、坂道のロードを上ってきて、身体が重い状態だったので、登らないと決めたのに、天気は予報よりも良くなり、もんもんとして過ごしました。梅雨明けしてない状態で、天気予報が外れてしまいました。この日は、須川高原を2時間ほど散策し、栗駒山を見上げて終わりました。その後、3日間は、土砂降り、霧雨と濃霧など、須川温泉にて停滞することになりました。
3日待ったのち、7月30日、栗駒山(須川岳)に登りました。
年初の計画では、残雪期に登る予定だった栗駒山ですが、夏の登山になりました。東北ではどっしり構えた山が多いので、二百名山のときのような最短距離ではなく、広く大きく登ってみたいと思っていました。
そこで、岩手県の須川温泉から、秋田県側に3km戻り、当初の計画どおり、秣岳からの縦走ルートで登っていきました。秣岳からの展望がよく、雲海の先に、泉ヶ岳と船形山が見えました。
山上の縦走路は、ゆったりした稜線や、途中の湿原、栗駒山の火山地形を感じながら登頂することができました。山頂では雲に覆われ、1時間半、晴れ間を待ちましたが、栗駒山を堪能することができました。
2日の移動を挟んで、8月2日には、焼石岳を登りました。 5年前の二百名山のときは、東北地方では梅雨に入っていました。天候が悪い日が続き、山容もわからず、どこをどう歩いたのか記憶がないという山が多くありました。焼石岳のときも、そういう天気で、断片的な記憶しかなく、「三百名山の旅で登り直したい」という原動力になった山のひとつです。
花の百名山で、高山植物が豊富な山で、宿で聞いたところによると、今年はいっぺんに咲いて、花期が短いとのこと。かつて、牛の放牧地があり、牛の通り道だった、という登山道を歩き、少し遠回りしてハクサンイチゲの群落を見て、じっくり5時間かけて登頂しました。5年前と違う姿を見ることができ、前回の分もしっかり味わうことができました。
三百名山に挑戦するきっかけのひとつ
岩手県内を東へ。「山の日」は、三百名山の五葉山に登り、震災後初めて三陸海岸を歩く
焼石岳のあとは、岩手県内を東へ移動していきました。奥州市へ入ると鉄風鈴の音が聞こえるようになりました。900年以上の歴史がある鉄器の町で、工場内のお店に立ち寄り、話を聞きました。
よく知られる「南部鉄器」は、盛岡のあたりで、江戸時代に、お茶の文化とともに広まったのですが、奥州市・水沢の鉄器は、平泉が隆盛を誇った平安時代から、寺社仏閣のための鉄器が元になっていると知りました。北上山地で鉄が採れ、重い鋳物を北上川で海まで運び、各地に運ばれたという、水沢鋳物について詳しく知ることができ、記念に鉄風鈴を買いました。
この日は、峠越えをしなくてはならず、途中に宿がなかったため、種山高原のキャンプ場でテント泊になりました。
翌日は、種山高原の最高峰・物見山に登り、これから進む、北を見渡しました。宮沢賢治の世界観、「風の又三郎」の自然背景を感じることができました。
次の五葉山に向けて、大船渡への移動途中には、「五葉山」の名前がついた神社へ立ち寄りました。火縄銃の火縄を作るための、ヒノキアスナロた取れたため、伊達藩直轄の「御用の山」となっていたそうなのですが、五葉松もたくさん自生していたので「五葉山」となったと、山の由来を聞くことができました。
8月7日は五葉山に登ろうという日でしたが、天気が不安定。行こうか行くまいか、迷ったうえで出発し、1時間40分進んだものの、登山口の8km手前で引き返すことにしました。
日記には 「自分の納得する旅にするため、無駄のようで無駄ではない」と記した
さらに2日、雨で停滞になり、8月10日にようやく、三百名山の五葉山に登ることができました。
今年の「山の日」は、8月11日ではなく、8月10日でしたので、3年続けて「山の日」が登山になりました。2018年は御在所岳、2019年は塩見岳、そして五葉山です。御在所岳は観光の方も登ってくる山、塩見岳は南アルプスを代表する登山者のための山、五葉山は地元の人に愛される山ということで、この三百名山の旅を象徴するような、三者三様の山が揃ったなと思いました。
百名山、二百名山、三百名山と揃ったのは偶然でしたが、三百名山を登っているので、嬉しい偶然でした。
登山口までは林道を13km進みました。五葉山は、伊達藩で御用の山にされるよりずっと以前から信仰の山として大切にされている山だそうで、ゴミひとつ無いくらいきれいな山でした。地元の人によって、ていねいに管理されているのがわかりました。火縄の原料と聞いたヒノキアスナロが自生しているのも確認できました。
9合目まで登ったところの、山小屋の前にたくさん冷たい水が流れる水場があって、山頂付近まで登っているのに、不思議な山だなと。花の百名山でもありますが、この時期に花は少なかったです。山頂台地の草原を抜けて、最高地点の日出岩へ立ちました。
三百名山で初めて登った五葉山でしたが、夏休み中、山の日ということもあって、地元の人が途切れないくらいたくさん登りに来ていました。三百名山というのは、地元の人に愛されている山、ローカル色の強い山が多いと改めて感じた山行でした。また、3度目の「山の日」で、一番のんびり過ごすことができました。
8月11日は、猛暑の中を大船渡から釜石まで、アップダウンが連続する三陸海岸を歩きました。2011年の東日本大震災の傷跡が激しい地域でした。大きな防潮堤の上を歩き、地元の方々に会って震災の時の話を聞いたり、震災前の姿を写真で見せてもらったりしました。
防潮堤を高くするところもあれば、「海が見えなくなってかえって危険だから」と低くしているところもありました。
過去の津波の教訓から高台に移転していたため被害がなかったという町でも話を聞きました。海の近くが便利だからと戻ってしまって被災した集落もありました。釜石は37.9℃まで上がり、軽い熱中症になりました。
翌日には、釜石市の鵜住居地区を通過しました。ラグビーW杯の会場にもなった復興スタジアムや「いのちをつなぐ未来館」に立ち寄りました。鵜住居地区の被災経験を、若い語り部から聞きました。震災の被害について、これまで知っていたことはごく一部のことと改めて感じました。
三陸海岸では、半島をひとつ越えるごとに、農村、漁村、いろいろな暮らしがあって、条件が様々でした。昔の人の知恵や言い伝えを守って助かった集落もあれば、自然からの教訓を顧みない、「ヒトの愚かさ」を感じるようなところもあって、自然とヒトとの関わりって何なんだろう、と考えることが多かったです。
さらに翌日は、宮古まで移動していき、長大な防潮堤を見ながら歩きました。海水浴場が開いていて「本州最後の太平洋」で海水浴もしました。 コロナで静かなお盆を迎えているようでした。
早池峰山からのハードな縦走路。岩手山は天気よく大展望に
早池峰山の登山の前日、8月15日には、山麓にある北上山地民俗資料館で、この地域の昔の暮らしぶりや、早池峰山について知りました。この日の宿泊は、自然に沿った自給自足の生活を目指して30年前に移住してきたというオーナーの宿でした。北アルプスの山小屋で働いたり、山のガイドをしたり、あちこち旅をしたりして、この地にたどり着いたといい、自分の父と似た価値観があるように感じて、話が弾みました。
8月16日の早池峰山は、 まず、タイマグラから小田越まで11km、上りのロードを進み、標高1250mの小田越から登るルートを取りました。蛇紋岩質ということと、岩場のある山というのが久しぶりでした。
ハヤチネウスユキソウ、ナンブトラノオなどの固有種がある早池峰山では、高山植物を探しながら進み、6年ぶりの登頂となりました。山頂は少し霞がかっていたものの展望があり、頂上でのんびりしてから、鶏頭山方面への縦走コースに進みました。
中岳の手前までは気持ちの良い稜線で、感動したのですが・・・、そこからが難所でした! あまり歩かれていなく、あまり歩かれていない縦走路で、この日、縦走路ですれ違ったのはひと組だけでした。暑さの中、倒木、ぬかるみ、細かい岩場のアップダウンという険しい縦走路になり、鶏頭山では疲れて座り込むほど。鶏頭山からは集中しなおして、山麓の「岳」まで下山し、早池峰山全体を体感する登山になりました。
早池峰山から、移動し、 盛岡市内では、わんこそばの店・東屋へ。新型コロナウイルスのため、しばらく休業していたようなのですが、再開していました。
「わんこそば301杯」も考えたのですが、カツ丼にしました。このカツ丼は、百名山の時、一日遅らせて休息日にしてでも食べたという思い出のカツ丼だったからです。サポートいただいている「ザ・ノース・フェイス」の盛岡の直営店を訪問し、岩手山の麓まで移動しました。
プロフィール
田中 陽希
1983年、埼玉県生まれ、北海道育ち。学生時代はクロスカントリースキー競技に取り組み、「全日本学生スキー選手権」などで入賞。2007年よりチームイーストウインドに所属する。陸上と海上を人力のみで進む「日本百名山ひと筆書き」「日本2百名山ひと筆書き」を達成。
2018年1月1日から「日本3百名山ひと筆書き グレートトラバース3」に挑戦し、2021年8月に成し遂げた。
田中陽希さん「日本3百名山ひと筆書き」旅先インタビュー
2018年1月1日から、日本三百名山を歩き通す人力旅「日本3百名山ひと筆書き グレートトラバース3」に挑戦中、田中陽希さんを応援するコーナー。 旅先の田中陽希さんのインタビューと各地の名山を紹介!!