日本アルプスの「クラシックルート」に関するワンゲル的考察

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

クラシックルートという言葉には、憧憬の念を抱かせる響きがある。では、そもそもクラシックルートとは、どんなルートなのか?雑誌「ワンダーフォーゲル」的にあれこれ考え、具体的なルートも挙げてみた。

写真=宇佐美博之、菊池哲男、岸田明、
津野祐次、星野秀樹、三宅岳
文=谷山宏典

 

ガイドブックなどで登山ルートを紹介するとき、「クラシックルート」という言葉が使われることがある。「クラシック」を直訳すれば、「一流の」「古典的な」「由緒のある」となり、語感から「昔から登られている良いルート」という意味であることはなんとなくわかる。しかし、その定義を問われたら、正確に答えられる人は意外と少ないのではないだろうか。

『実用 登山用語データブック』(小社刊)によれば、クラシックルートとは「ある山の顕著な稜や谷、岩壁に、主に開拓初期に初登攀されたルート。現在では困難度は高くないが、比較的多くのクライマーを迎える定番的な登攀ルートである場合が多い」とある。ただ、この定義は、文中に「登攀ルート」「クライマー」とあるように、クライミングの視点から書かれており、一般登山道のクラシックルートには当てはまらないのではないか。また、『目で見る日本登山史』(小社刊)の登山用語解説のページには、「時代を超え再登される意義をもつルート」とある。

島々から上高地へのクラシックルート途中、徳本峠展望台から眺める明神岳(手前)と穂高連峰(奥)


日本の登山史を振り返れば、明治時代に近代登山が始まる以前から、人々は信仰や仕事(杣人、猟師、藩の検分など)のために山に入り、峠を越え、頂をめざしてきた。その道を、明治以降に登山者が歩くようになり、現在も主要な登山道として利用されているケースは少なくない。江戸時代の文政11(1828)年、播隆が槍ヶ岳を開山したときに登った槍沢は、今も槍ヶ岳へのメインルートとして大勢の登山者が行き来している。白馬岳のメインルートである白馬大雪渓は、明治16(1883)年に北安曇郡長の窪田畔夫らによって登られており、この登山は近代登山で最初の白馬岳登頂とされている。

槍沢も大雪渓も「昔から登られている良いルート」であり、その意味ではクラシックルートと呼んでも間違いはないのだろう。ただ、「歴史がある」「古くから登られている」という条件だけでクラシックルートを定義づけてしまうと、日本中クラシックルートだらけになってしまい、ありがたみが薄れてしまう。

中央アルプス・上松Aコース上部から木曽駒ヶ岳と宝剣岳を望む


そこで、先述の「時代を超え再登される意義をもつ」という定義から、ワンゲル的に新たな条件を加えてみた。それは「かつては主要な道だったが、現在はほかに便利な道が作られているため、訪れる人は少なくなった」けれども、「歴史的、景観的に時代を超えた価値がある」というルートだ。

たとえば、上高地へのアクセスは、昭和初期までは徳本峠越えが主流だったが、昭和8(1903)年にバス便が運行されると、徳本峠を越えて上高地へ入る人は少なくなった。また、北アルプスを貫いて長野と富山を結ぶ立山黒部アルペンルートや、千畳敷カールの標高2612mまで一気に登る駒ヶ岳ロープウェイも、アルプスの山々へのアクセスを容易にし、登山者の流れを大きく変えた。では、そうした「移動がラク」で「アクセスのよい」ルートができたことで、旧来の道の価値が失われてしまったかといえば、そんなことはない。

峠から眺める山並みは今も昔も変わらず美しいし、信仰登山や近代登山の歴史に思いをはせることで山登りはより深くなる。たしかにコースタイムは長くなり、体力的・技術的な難易度は上がるかもしれないが、登る価値は今もある。そんなルートこそ、クラシックルートという呼び名にふさわしいのではないだろうか。本ページでは、そんな観点から選んだ、日本アルプスの6つのクラシックルートを紹介する。

船窪小屋の主人が復活させた針ノ木古道。コースは渡渉続きでハードだ

 

ルート1/島々⇒徳本峠⇒明神

島々から徳本峠を越える道は、かつての上高地へのメインルートで、江戸時代には杣人や薬草採りの人々が、明治時代になると多くの登山者が行き交った。W・ウェストン、小島烏水、芥川龍之介、高村光太郎・智恵子夫婦らも、この峠を越えて上高地へと入っている。峠からは明神岳や穂高連峰の荒々しい絶景が望める。

徳本峠小屋。大正12(1923)年から営業している

 

ルート2/針ノ木峠越え

ザラ峠~平~針ノ木峠を越えて、越中(富山)と信濃(長野)をつなぐ道は、江戸時代、加賀藩の黒部奥山廻り役が行き来した記録が残る。戦国時代の富山城主・佐々成政が冬季に越えたとする伝説も有名。現在は、ザラ峠以西は廃道となっているが、以東は通行可能(ただし、徒渉箇所あり、上級者向け)。

針ノ木谷では徒渉を繰り返す

 

ルート3/蓮華温泉⇒鉱山道

起点となる蓮華温泉は、戦国時代に上杉謙信が銀山開発の際に発見したと伝わる秘湯。鉱山道は、江戸時代初期から明治末期まで採掘が続けられた雪倉銀山のために開かれた道で、明治27(1894)年にW・ウェストンも登っている。ルート上には、鉱山事務所跡、塩谷製錬所跡などが今も残る。

厳しい労働を強いられていた鉱夫たちも、絶景に癒されるひとときがあったのかもしれない

 

ルート4/上松Aコース⇒木曽駒ヶ岳

木曽駒ヶ岳は、江戸時代の天文元年(1532)に上松徳原の神官が山頂に神社を奉祀し、以後、木曽側からの信仰登山が盛んになる。現在の上松Aコースは、駒ヶ岳神社里宮を一合目とし、山岳信仰の正道として江戸時代から脈々と歩かれたルート。明治時代にはW・ウェストンや小暮理太郎も上松から登っている。

上松Aコースの登山口の様子

 

ルート5/黒戸尾根⇒甲斐駒ヶ岳

甲斐駒ヶ岳が信州諏訪の延命行者(小尾権三郎)によって開山されたのは文化13(1816)年で、このときの登路が横手~黒戸尾根だとされている。以後、黒戸尾根は甲斐駒ヶ岳の表登山道として、多くの信者に登られてきた。ルート上には祠や石碑、鉄剣などが現存し、信仰登山の面影を今に伝えてくれる。

2本の鉄剣が立つ巨岩。尾根上には祠や石碑なども数多く残る

 

ルート6/小渋川⇒赤石岳

小渋温泉から小渋川を遡行し、広河原、大聖寺平を経て、赤石岳へと至る登路は、明治25(1892)年にW・ウェストンが登頂したルート。稜線まで短時間でたどり着けるが、徒渉を何度も繰り返さなければならず、ロープを使う箇所もあり、上級者向きのルートである。

小渋川の遡行では、徒渉を何度も繰り返す。増水時は危険なルートとなるので要注意

 

現在発売中のワンダーフォーゲル4月号の特集は、「アルプス名ルート 100」。ワンダーフォーゲル創刊 10 周年を記念して、日本アルプスの名ルートを一挙に100本紹介する保存版特集だ。歩いたことのあるルートを思い出したり、いつかは行きたいと思いを馳せたり――。11のテーマで選ばれた100ルート、お楽しみください!

 

プロフィール

ワンダーフォーゲル編集部

特集は、「アルプス名ルート 100」。
ワンダーフォーゲル創刊10周年記念企画!日本アルプスの名ルートを100本紹介する保存版特集。
歩いたことのあるルートを思い出したり、いつかは行きたいと思いを馳せたり。
11のテーマで選ばれた100ルート、お楽しみください!

 ⇒詳細はコチラ!
 ⇒Facebook
 ⇒Twitter

From ワンダーフォーゲル編集部

隔月で発行の雑誌、『ワンダーフォーゲル』。注目の特集記事や取材裏話など、雑誌編集部からとっておきの山の話を、神出鬼没に紹介!

編集部おすすめ記事