田中陽希さん旅先インタビュー特別編。再スタートに向けて!

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「日本3百名山全山ひと筆書き」に挑戦中の田中陽希さんは、2020年11月に北海道・暑寒別岳に登頂した後、今年の3月まで富良野のご実家で雪解けを待っていた。4月1日の再スタート直前にオンラインでインタビューを行い、激動の1年を振り返りつつ、ゴールへの意気込みや、3月に発売された著書『それでも僕は歩き続ける』について聞いた。

インタビュー=編集部、
文=千葉弓子(グランノート)

 

昨年登ったのは36座。2020年の活動期間は実質半年だけでした

―― 昨年は2月に神奈川のご自宅に一時帰宅されたあと、新型コロナウイルスの感染拡大によって4月から6月まで山形で空き家生活をされました。2度の停滞を経験しつつ、36座に登頂されています。この1年はいかがでしたか。

田中:昨年は僕の旅だけでなく、日本中、世界中のさまざまな分野で予定が中止になったり、変更を余儀なくされたりしました。新型コロナウイルスによって命を落とす方もたくさんいて、その影響は甚大でした。医療現場の最前線など多くの苦労を伴いながらお仕事を続けておられる方たちがいるなかで、旅の途中である自分は正直、どこか離れた場所に立っているような感覚だった気がします。

2020年は磐梯山からスタートだったが、
雪不足で計画変更。
1月末に、神奈川の自宅に帰宅した


この1年を振り返ってみると、かなりの時間、停まっていたことになります。これまでの中断は台風や集中豪雨、地震や火山活動など自然の力が要因でした。だから諦めがつくといいますか、不安を感じながらも気持ちは落ち着いていられたんです。

ところが今回の原因は未知のウイルスで、目にも見えませんから、怖く感じるんですよね。もしもウイルスが匂いや色を持っていたり、音を発するような物体だったりしたら、何かしら防御する方法が見つかったかもしれませんけれど、人間の五感で感じ取ることができないものであるということが、脅威に繋がったのだと思います。

一時帰宅中に行われた交流会/わずかの日程調整で、栃木の荒海山から旅を再開


昨年春、初めての緊急事態宣言が発令された頃には、山岳界でも登山自粛が強く呼びかけられていました。そうした状況のなかで、自分はどう行動するべきか判断し、山形県酒田市の空き家で自粛することを決めました。今回の書籍のお話は、この自粛期間中にいただいたものでした。

計画変更でやっと登った飯豊山/4月に鳥海山を登った後、登山を自粛した


その後、再スタートして36座登ったわけですけれど、旅自体が動いたのは約半年間ですから、残りの半年間は山と向き合っていなかった時間になります。

結果論ですけれど、半年間で北海道まで辿り着けたのはよかったかなと思います。10月いっぱい使って暑寒別岳の麓まで歩き、暑寒別岳に登って、11月に富良野の実家に帰りました。

9月末、ついに北海道へ到着/暑寒別岳を登ったのが11月。2020年は36座に登頂した

 

困難な状況下のなかでも、自分は救われた方だと思う

―― 不測の事態のなかでも、着実に前進されたわけですね。

田中:北海道に渡ってから体調不良もあり、季節の変わり目でなかなか天候が読めない状況でもありましたが、「ここまではなんとか登っておきたい」という目標には達せたかなと思います。

思い返すと、本を出すきっかけになったのもコロナで停滞を余儀なくされたからだったわけで、その間にインタビューという形でいまの想いをまとめることができました。誰もが経験したことのない時間のなかで、僕は救われた方だなと思っています。

旅を中断し、4月から7月まで山形県酒田市で
自粛生活を送っていた


もちろん、旅は約1年延びたわけですから、大きな影響は受けているんですけれど、こういう状況下で旅を続けていられるのは、極めて希なことだと感じています。僕の帰りを持ってくれているチームイーストウインドの仲間たち、カッパクラブや人力チャレンジの仲間たちもみな予定通りのことができないでいます。世界中で多くのアドベンチャーレースが延期や中止を余儀なくされています。そんななかで自分が挑戦を続けられているのは、なにか不思議な気がしますね。旅を前に進められていることで、救われている自分がいます。

8月ごろ。テレビではあまり出てこない、
旅のひとコマ


―― 以前のインタビューで「もしアドベンチャーレースに戻っていたら、レースがなくて失望していたかもしれない」とおっしゃっていましたね。感染が比較的落ち着いていた時期に海峡横断ができたことも幸運だったと思います。

田中:そうかもしれませんね。酒田にいるときには極力、地元の方々との接点を少なくするようにしていました。3ヶ月も過ごしていると、地元の方がいろいろ気にかけてくださるんですね。夕食のおかずのお裾分けなどはありがたくいただきましたが、お誘いを受けても一緒に食卓を囲むようなことは一切控えていましたし、一人で外食したのも2回きりです。

7月中旬、旅を再開して最初の山は神室山だった


昨年7月に再スタートした後も、しばらくは応援者の皆さんとのコミュニケーションがなんとなくぎこちなかったですね。写真とサインには応じますが、いまも握手は控えるようにしています。いちばん気をつけているのは、大きな街での宿泊です。やむを得ないとき以外は、人が多い中心地に泊まらないようにしていました。

 

4月の山を乗り切れば、その先の道のりが見えてくる

―― 今後どのようなスケジュールを予定していますか?

田中:最初に芦別岳から夕張岳までスキー縦走をして、それから日高山脈に登ります。南部のペテガリ岳以降は全体的に標高が下がり、一部では標高1200mまで下がります。稜線は細く雪がつきにくいため、歩きにくいのではと予想しています。

晴れて暖かい分にはいいのですが、雨が降ってしまうと難しくなりますね。雪は水を含むと解けやすくなってしまいますから。最短で9泊10日、最長で2週間を予定していて、2週間分の食料を担いでいくのでなかなかの重量です。

現地ではイグルー(雪のブロックでつくるシェルター)をつくって寝ます。雪洞よりもつくるのが早いんですよ。それに雪洞は掘る場所を選びますが、イグルーなら雪さえあればどこでも積んでつくることができるので効率的です。綺麗につくるとかまくらのようになりますが、それが難しいときには半洞くらいの形でも一晩なら寝られます。

残雪期の縦走に備え、イグルー泊の練習も


―― ある程度、雪が落ち着いた状態であることが望ましいわけですね。

田中:例年4月はどの山域でも一年でいちばん雪が落ち着いています。近年は温暖化の影響で、GW頃になると雪がなくなってしまうんです。ネット上にも「ハイマツの藪漕ぎが大変だった」という記録がたくさんありました。3月だと冬型の低気圧になって、吹雪かれて山中で停滞することも多いですし、雪崩や雪庇のリスクも高くなります。ですから、4月上旬くらいがベストかなと考えています。北海道大学の学生さんが3月に単独縦走した記録があるのですが、15〜16日かかっていました。

―― 今後、また富良野の実家に戻ることはありますか。

田中:あるかもしれませんね。ほかにパックラフトで天塩川を下る予定もあります。ダムを通過せずに河口まで下ることができる日本でいちばん長い川です。そして天候を見ながら、シーカヤックで利尻水道を渡ります。

―― 利尻水道はいちばん緊張する場所ですね。

田中:そうですね。「日本百名山ひと筆書き」で渡ったのはもう7年前になります。そのときは荒れていたので、今回は気持ちよく漕いで渡りたいなと思っています。

2019年11月、佐渡島をシーカヤックで往復。
これまで海峡横断は7回。緊張の連続だ


―― 季節的にはどうでしょう。

田中:前回は10月でしたが、今回は夏の予定なので、だいぶ違うと思います。海水温も高く、台風シーズン前でもありますし。北海道でも近年は「蝦夷梅雨」といって、梅雨前線が上がってくるんですけれど、それも終わった頃かと思います。

すでに紙の上ではスケジュールを立て終えましたけれど、まだまったくゴールは意識していません。天塩川を下ったら、ようやくゴールを意識し始めるのかなと思います。この4月を乗り切れば、その先の行程が見えてくると考えています。日高の縦走はこの旅が始まったときから気になっていたのですが、地元の方たちによれば、この時期は一年でも比較的登りやすいそうです。

 

ゴールの利尻山は、晴れた穏やかな日に登りたい

―― 少し気が早いですが、ゴールでどんなことを思うのでしょうか。

田中:順調にいけば、あと4ヶ月足らずですね。これまで過ごしてきた時間に比べると4ヶ月はあっという間だと思うのですが、それまでに乗り越えていかなければならない大きな山がまだまだあるので、いまはゴールの実感はないですね。ただ決めているのは、利尻山の登頂は晴天を待とうということです。雲一つない穏やかな日に登るというのは、大前提として決めています。

―― 百名山のときの利尻山は荒天で一度引き返しましたね。

田中:一度8合目まで登って、引き返しました。今回は登山者が多くなる季節ですから、混み合うことは予想されますね。それでもゆっくり山頂で過ごせればいいなと思っています。

2016年元日、二百名山のゴール・佐多岬にて。
三百名山のゴールはどんな形になるだろう

 

この旅を終えたら、再びアドベンチャーレースの世界へ

―― 先頃、上梓された本にも記されていましたが、旅を終えた後にはアドベンチャーレースの世界に戻られるわけですね。

田中:はい。この本をつくっていた最中は、いつまで続くかわからない感染拡大と空き家生活で、心が揺れ動いていました。当時は、こんな状況のなかでアドベンチャーレースの世界に戻れるのだろうかという不安もあって、田中正人夫妻に電話で胸の内を伝えたりもしました。僕は3年以上チームから離れていますから、ゴールした後、自分が戻れる場所がないんじゃないかとさえ思ってしまったんです。

でもいまはそんな不安もなく、これまでの2つの旅と同じように、ゴールしたらチームに戻って本来の「世界一」という目標に向かって活動していきます。

「チーム・イーストウインド」の仲間たちと。
レース中のひとコマ
(写真:Chirstian Miranda/ Patagonian Expedition Race)


―― チームに戻ってからの予定は決まっていますか。

田中:新しいメンバーとはすでに顔を合わせていますけれど、一緒にレースに出場したことがあるのは隊長の田中正人さんだけですし、女性メンバーが欠けているのも課題です。僕がチームに入ったとき正人さんは38歳で、いまの僕と同じくらいの年齢だったんですね。そこから15年経ったというのは、あらためて考えるとすごいことです。自分自身はいまから15年先までレースに出場し続けることは、なかなか想像できません。そういう意味で、やはり正人さんは考え方が特別なんだと思います。 

正人さんとは、お互い相手を丸ごと受け入れていると感じています。アドベンチャーレースに限らず、人間関係はもっとシンプルであるべきだと思うんですよ。シンプルとはつまり、素直になるということ。新しいメンバーとも、気を遣って探り合うようなコミュニケーションではダメだなと思っています。

アドベンチャーレースの師・田中正人さんと。
レース直後に健闘を称え合う
(写真:Patagonian Expedition Race)


―― もうひとつ、「自然から学んだことをフィードバックしていきたい」という夢もあるそうですね。

田中:旅をしていると、ここ数年、自然の変化のスピードが速まっているのを感じます。僕ら人間は利益追求型の生活を送ってきたわけですが、その負荷が積もり積もって、自然に大きなダメージをもたらしています。

マイクロプラスチック問題もそのひとつで、人体にも影響を与えるほどの量が排出されていますよね。もはやクリーンだと思って吸っている空気の中にも、マイクロプラスチックが含まれているかもしれないわけです。

僕らはこの先、20年、50年の間に日常生活のレベルで価値観を変えていかなければいけないと思うんです。自分自身に関していえば、まず旅を終えた後の生活拠点ですね。みなかみ町にするのか、故郷の北海道にするのか。もし富良野を自分自身の活動拠点とするならば、住むための環境をあらためて整えなければならないでしょう。100年先を見据えて活動していかなければいけないと思っています。

 

挑戦で大事なのは、自分の気持ちが100%であること

―― 今回の著書は自叙伝的な要素もあり、生い立ちから現在の旅のことまでが広く綴られていますね。陽希ファンだけでなく、これから大人になる学生さんにもぜひ読んで欲しい本だなと感じました。制作でご苦労したのはどのようなところでしょうか。

田中:制作作業の終盤がちょうど実家に戻るタイミングと重なったので、写真選びをしたんです。久しぶりに昔のアルバムをめくってみて、本のストーリーに合った写真を見つけ出す作業がなかなか大変でした。

―― ご家族とのキャンプシーンや大学時代の教育実習などレアな写真も掲載されていますね。

田中:赤ちゃんの頃の写真も掲載しています。今回は旅の途中ということもあり、インタビューを文字にまとめているので、自分で記した過去の書籍よりも楽をさせてもらった気がします(笑)。

教育実習をする大学時代の田中陽希さん
(著書より)


―― 最後にファンの皆さんにメッセージをお願いします。

田中:スタートから4年目を迎えて、すでに過去の2つの旅を足した以上の年月になりました。旅の間には何度か停滞もありましたし、新型コロナウイルスによる社会状況の変化もありました。そうしたなかでも旅を続けてこられたのは、本当にありがたいことだなと感謝しています。

最近、あらためて感じたことがあります。それは、自分がやりたいと思ったことに挑戦する際の心のパーセンテージです。やはり自分自身の気持ちが100%でなければダメなんだなと思うんですよ。

そのことに気づいたのは「日本2百名山ひと筆書き」の経験からでした。スタート時のモチベーションは100%でしたが、それは自分個人だけで100%に達していたわけではなくて、周りの人たちのフォローによって100%にまで高めていけたんです。たくさんの人に引き上げてもらっていました。

自分自身で100%にまで気持ちを高められなかったために、旅の最中には心が揺れ動くことが何度もありました。「日本百名山ひと筆書き」の挑戦では、そうした揺らぎはまったくなかったんですね。自分の気持ちだけで100%に達していた旅だったからです。いずれの挑戦も達成できたわけですが、意味はまったく異なる気がします。二百名山では、足りない部分を補ってくださったサポートや応援の方々が背中を押してくれたからこそ無事にゴールすることができました。

0歳の田中陽希さん(著書より)


今回、これほど何度も停滞し、長期に及んでもなお旅が継続できているのは、僕自身の熱量がずっと100%を保ち続けているからだと思うんです。自分自身の熱がスタートからずっと変わらずに続いていて、それを受け止めてくださる方たちが変わらずにサポートしてくださる。旅のエネルギーは100%を超えているような状態です。

これは想像ですが、もしかしたら、ちょっと暑苦しいくらいの熱量を持っていた方が人間は引き込まれるのかもしれませんね。本にも記しましたが、それが「本気」ということなのかなと思います。これまでに2つの旅を経験してきたからこそ、それに気づくことができました。

この先、まだまだ何が起きるかわかりませんが、変わらず諦めずに進んでいきたいと思います。

生い立ちと、百名山の旅、これからを記した著書
『それでも僕は歩き続ける』
(平凡社刊/2021年刊)

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田中陽希さんの三百名山の旅は、残り18座。4月1日に旅を再開させた。

2021年4月1日、富良野の実家から、「日本3百名山ひと筆書き」の旅へ再出発

 

取材=2021年3月22日
協力=人力チャレンジ応援部、イーストウインド・プロダクション、平凡社

 

関連リンク

人力20,000kmの山旅。日本3百名山ひと筆書きに挑戦中の田中陽希さんを応援しよう!
もっと知りたいという方は、ウェブサイトで。
グレートトラバース事務局ウェブサイト
https://www.greattraverse.com/

プロフィール

田中 陽希

1983年、埼玉県生まれ、北海道育ち。学生時代はクロスカントリースキー競技に取り組み、「全日本学生スキー選手権」などで入賞。2007年よりチームイーストウインドに所属する。陸上と海上を人力のみで進む「日本百名山ひと筆書き」「日本2百名山ひと筆書き」を達成。
2018年1月1日から「日本3百名山ひと筆書き グレートトラバース3」に挑戦し、2021年8月に成し遂げた。

https://www.greattraverse.com/

田中陽希さん「日本3百名山ひと筆書き」旅先インタビュー

2018年1月1日から、日本三百名山を歩き通す人力旅「日本3百名山ひと筆書き グレートトラバース3」に挑戦中、田中陽希さんを応援するコーナー。 旅先の田中陽希さんのインタビューと各地の名山を紹介!!

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