「なんでもありがとう」。黒部源流の山小屋で働く日々で気づいたこと

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山と旅のイラストレーターやまとけいこさんの画文集『蝸牛登山画帖』(山と溪谷社)より、一部抜粋してお届けします。今回は、黒部源流の山小屋、薬師沢小屋で働く日々で気づいた感謝の気持ちについて。

 

黒部源流にて(「第六章 山の暮らし」より)

 北アルプス黒部源流。富山県、黒部川源流部のほとりに立つ薬師沢小屋で働くようになって、かれこれ十数年がたつ。その間、希望が通らず同グループの別の山小屋になったり、他の山小屋で働いたり、堅気になろうと下界(山から指す街のこと)で過ごしたこともあった。だが私は今シーズンもまた、この黒部源流で山小屋の夏を迎えようとしている。私は黒部源流が好きだ。世界で一番好きな場所といってもいい。

 小屋前に架かる吊り橋の上から足元を眺めると、キラキラと輝くエメラルドグリーンの流れに、体中が包み込まれるようだ。沢の水音が空気中にあふれ出し、季節折々の風が軽やかに吹き抜けていく。きれいな水を湛えた風景には、DNAレベルで人を癒やす力がある。

 黒部源流での暮らしは、水とともにある。雨が降り続けて川の水が増えると、小屋の対岸の沢からホースで引いている飲用の沢水は、濁って使い物にならなくなってしまう。川に棲んでいるイワナたちも、流れの緩い浅瀬に逃げ込んで、水が引くまでひたすら待ち続ける。

 さらに水かさが増して鉄砲水でも出たときには大変だ。登山道上の橋が流されてしまったり、イワナも致命傷を負うことがある。私は以前、増水後に橋桁に引っかかって死んでいたイワナを見たことがあるし、転がった石にぶつかったのか、体に痣のような傷を負ったイワナも見たことがある。

 大きな増水は、川の地形や流れを少しずつ変えていく。河原沿いにつけられた登山道は、ときに流れを変えた川の中に水没してしまうことがある。逆にわざわざ鎖を張った岩場の真下を流れていた川の流れが変わり、岩場の下を歩けるような年もあった。

 水は川を流れ、海に注ぎ、やがて蒸発して雲になり、再び山に帰ってくる。水とともに暮らしていると、自分が大きな循環のなかに生きていることを実感する。黒部源流の清流と、水に支えられた生命、そのすべてを内包する自然。私自身もまた、この美しい自然の一部であるということに気づかされる。

 自然というと大きな全体を想像してしまうが、小さな虫や植物のなかにも、自然がつまっている。虫の小さな体が精巧にできていること。こんなに小さいのに目があって羽があって空を飛べるなんて、美しいとしか言いようがない。しかも一斉に羽化して交尾したり、イモムシからサナギになってチョウに変態するとか、神業だ。植物もしかり。

 自然は大きな生き物なんだな。小さな生き物たちは自然のなかのひとつひとつの細胞のようなもので、新しく生まれては死んでいき、再生を繰り返している。ひとつひとつの細胞が元気だったら、大きな自然も元気いっぱいにちがいない。

 元気のある人と一緒にいると、なんだか元気を分けてもらったような気分になって、自分まで一緒に元気になったりする。同じように、黒部源流の豊かな自然に囲まれて日々を過ごしている私は、忙しくて疲れていても元気だ。登山者の人たちもきっと、山に登ってくたくたに疲れても、みんな元気になって帰っていくのは、同じ理由なのではないかな。

 山と自然は、私にとって人生の師匠のようなものだ。大切なことをたくさん教わってきた。だが学んできたのは自然からだけではない。山小屋での暮らしのなかからも、たくさんのことを教わってきた。

 山小屋で働くようになるまで、実は私は少し人間が苦手だった。昔から周囲にただ合わせるだけという行動が苦手で、自分の価値世界のなかに生きていた。周囲に同調してほしいと思うこともなく、自分で勝手に決めて、勝手に行動するタイプだったかもしれない。

 美術や造形の世界ではそれでよかったというか、むしろよかったのかもしれない。ちょっと面白い奴くらいで許されていた。だがオリジナルの価値世界を持つことと、世の中との関わり合いや良好な社会性を保つことは、また別の問題だ。私には社会性を学ぶ機会が欠けていた。

 赤の他人との生活。接客業。山小屋での仕事で苦労したことは、まさに人間関係と社会性だった。思えば仕事を始めた頃、私はずいぶん多くの人に不愉快な思いをさせていたと思う。今でもまだまだ学ぶことはあるし、反省することも度々ある。

 ときどき山小屋では上手に人間関係が構築できないアルバイトがいるが、なんだか昔の自分を見ているようで、切ない気持ちになる。できないことはできるようになればいい。人は気づいたときから少しずつ変わることができる。だから大丈夫……。

 そんな山小屋での人間関係につまずいていた若かりし頃、私はひとつ大切な言葉をいただいたことがある。それは「なんでもありがとうなんだよ」という言葉だ。なんでもありがとう、すべてに対する感謝の気持ち。言っていることはわかるが、私には正直、その言葉の持つ本当の意味が理解しきれなかった。

 理解できないけれど大切な言葉として胸に刻んだ私は、その後の生活のなかで「ありがとう」をたくさん言ってみることにした。口にすると不思議なもので、私は今まで当たり前と思っていたことに、たくさんの感謝の気持ちを発見することができた。

 お店で品物を購入して、ありがとう。たしかにこの品物が私の手元に届くまで、たくさんの人の力があって手に入れることができた。仕事をいただいて、ありがとう。どんなに大変な仕事でも、私を選んでお願いしてくれたことへの感謝。断るときの申し訳なさ。どんなに小さなことのなかにも、たくさんのありがとうがあるのだ。

 いつの間にか私は、ありがとうと思う気持ちが当たり前になった。人だけでなく、自然に対しても、物に対しても、自分自身に対しても。何年かのちに、私は気がついた。私はずいぶん人間が好きになったなと。意見や価値観などの合う合わないは当然あるにしても、人としての感謝の気持ちを持てるようになった。

 感謝の気持ちというのは、自分がいかに幸運であるかを知ることでもある。黒部源流の自然に囲まれ、山が好きな仲間や、登山客の皆さんに接していると、本当にありがたいことだなと思わずにはいられない。

 ハイシーズンを除けば、シーズンを通して薬師沢小屋で働けるのはたった三人だけだ。うち女性は一人だけ。世界中の女性のなかで一人だけ。そういった意味で私は世界中で一番幸運なのだ。吊り橋の上で黒部源流の流れを眺めながら、私はときどき、独り山に向かってのろけている。

 

 

※本記事は『蝸牛登山画帖』を一部掲載したものです。

 

『蝸牛登山画帖』

6月生まれで、雨の日にあじさいの葉の上をのたりのたりと歩く蝸牛(かたつむり)に親近感をおぼえ、
なんだか自分に似ているという、やまとけいこさん。

薄くて軽い渦巻状の蝸牛の殻は、一人静かにプライベート空間を楽しめる、くつろぎのマイホーム。

家財道具すべてを背負い、心ゆくままに旅にでることのできる山登りと、
コツコツと一人、試行錯誤しながら描きたい絵を描くことは似ている。

蝸牛のように、山と絵の世界を歩き続けてきた著者による、エッセイ&イラスト集。


『蝸牛登山画帖』
著: やまとけいこ
発売日:2021年6月19日
価格:1430円(税込)

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【著者略歴】
やまとけいこ

山と旅のイラストレーター。1974年、愛知県大府市生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。高校生のときにはじめて北アルプスに登り、山に魅了される。大学時代はワンダーフォーゲル部に所属し、日本の山々を縦走する。同時に渓流釣りにもはまり、沢歩きを始める。卒業後は「鈴蘭山の会」に所属し、沢登りと山スキーを中心とした山行へ。イラストレーターと美術造形の仕事をしながら、29歳から富山の山小屋アルバイトを始める。この頃からアフリカや南米、ネパールなど、絵を描きながら海外一人旅もスタートした。39歳で「東京YCC」に所属し、クライミングを始め、現在に至る。黒部源流の山小屋、薬師沢小屋での暮らしは、トータル14シーズン。2020年、長年通い続けた憧れの富山に移住。剱岳、立山連峰、薬師岳を眺めながら、富山県民として新たな暮らしを始めたところ。イラストレーターとしては、山と溪谷社、Foxfire、PHP研究所、JTBパブリッシング、北日本新聞などで作品を発表。美術造形の仕事としては、国立科学博物館、名古屋市科学館、福井県立恐竜博物館、熊本博物館、東京都水の科学館、東京ディズニーランド、藤子・F・不二雄ミュージアム、ほか多数で制作に携わる。著書に『黒部源流山小屋暮らし』(山と溪谷社)がある。

蝸牛登山画帖

夏山シーズンには黒部源流の薬師沢小屋で働く、山と旅のイラストレーターやまとけいこさん。『黒部源流山小屋暮らし』に続く画文集『蝸牛登山画帖』より、一部抜粋してお届けします。

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