【巨大クジラを解剖する】大包丁で頭部を切断、脊椎をバラバラにして内臓を切り出す…凄まじい解体現場、それでも海獣学者が伝えたいこと
日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』は、海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発売たちまち重版で好評の本書から、内容の一部を公開します。第9回は、解剖調査の道具について。

内臓の調査は超ガテン作業
捕鯨全盛時代には、巨大なシロナガスクジラでも、船の上で人間が解体していたと聞く。シロナガスクジラといえば全長約20メートル、これを船尾にあるスリップからウインチを使って船の上に引き揚げ、解体していた時代は想像を絶する。
最新機器などなくても、人間は経験と知恵でさまざまなことをやってのけるチカラを持っていることを実感する。
そんな時代に誕生した道具の一つに「クジラ包丁」というものがある。今では製作している会社は国内に1ヶ所しかないが、なぎなたのような「大包丁」と、木の柄がついた「小包丁」がある。これも大型クジラを調査するときに欠かせない道具である。
知り合いのオランダの研究者が日本に来日したとき、大包丁を見てとても感銘を受けたようで、帰国後その会社にクジラ包丁を注文したというエピソードもある。世界的にもとても貴重な包丁なのかもしれない。
大包丁は、クジラの皮剝きや頭部の切断といった大掛かりな作業に使い、小包丁は背中にある脊椎骨の椎間板を切ってバラバラにしたり、筋肉を剝(は)いだりするときに使う。
クジラ包丁も一般的な料理包丁と同じで、切れ味を保つには絶えず研いでおかねばならない。優秀な研ぎ師が研いだクジラ包丁は、巨大なクジラの分厚い皮でも、最小限の力でスルスルと切り進められる。魔法の杖のごとしだ。

一方、内臓は、小包丁より一回り小さな解剖刀を使って一つ一つ切り出し、写真を撮って、重量を測ったあと、必要な部位を回収する。
内臓の調査では、まず死因を探る。私たちと同じ哺乳類である彼らは、私たちと同様の病気にかかる。乳がんやリンパ腫などのがん、インフルエンザ、脳炎、肺炎、膀胱(ぼうこう)炎などの感染症に始まり、心臓病や糖尿病などの代謝疾患、動脈硬化にも陥る。
近年では、イルカの脳にも老人斑が発見され、つまり、アルツハイマー病にかかるかもしれないという説もある。その他、寄生虫の感染、環境汚染物質による内分泌(甲状腺や副腎)や生殖腺(陰茎や子宮、卵巣や精巣)の影響も観察する。
さらに、生活史の一環として生殖腺から性成熟度合も推察する。
私たち人間もそうだが、身体的成熟(いわゆる身長がいつごろまで伸びるか?)と性的成熟(いわゆる子孫を残すために生殖器が機能できるのはいつごろなのか?)の時期はズレるのが普通である。たいていの場合、性的成熟が早く、その後、身体的成熟が訪れる。
「異常」を発見するには、その動物の「正常」を把握しておく必要があるのだ。
海の哺乳類は、再び海に戻った変わり者だけに、その内臓も特有に適応進化したところがある。そうした背景で何が異常で、何が彼らに特有の進化であり正常範囲であるのかを整理して理解しなければならず、それには数をこなしてデータを蓄積していくしかない。日々鍛錬、継続は力なり、急がば回れ、なのである。
作業をしている間、体にはクジラの血液や油脂が飛び散って、気づくと公衆トイレへ行くのもままならない状態になっている。
そのため解剖調査を行うときは、耐油性の長靴を履き、汚れの落ちやすい安価な作業着を着る。足元が水に浸かる場所は胴長を身につけ、夏場は日除けのための麦わら帽子が欠かせない。
血まみれ、脂まみれ、汗まみれの麦わら帽子姿で、テレビ局のインタビューを受けることもある。それをたまたま目にした家族や友人は、労をねぎらってくれるどころか、
「なんてひどい格好なの」
「あの麦わら帽子はないわぁ」
と、非難ごうごう。おしゃれ帽子をいくつかいただいたこともある。
おしゃれ帽子を何度かかぶってみたけれど、調査現場では、やっぱりおしゃれより機能性。昔から農家の方が使っている、あの麦わら帽子がダントツに使いやすいのだ。
そもそも、血まみれでおしゃれ帽子をかぶっているほうがミスマッチ極まりなく、怖いに違いない。プレゼントしていただいた帽子たちは、今もクローゼットに大切にしまってある。これは内緒にしておこう。

研究者は説明したくてたまらない
解剖調査の現場には、近隣に住む子どもたちが来てくれることがある。
そうなると即席の「海の生き物教室」を開催することもある。先日は、課外授業として海岸に来ていた幼稚園児の集団が興味深そうに近づいてきてくれたので、声をかけた。
「みなさ〜ん、こんにちは! 今日はクジラについて少し物知りになりましょう。クジラって知ってますか?」
クジラの内臓を並べてあるところへ手招きすると、子どもたちは走り寄ってきて、クジラから取り出したばかりの内臓を、キラキラした目で見ている。
私の経験からいうと、小学校低学年までの子どもは、クジラの死体や内臓を見ても怖がることはほとんどない。怖がるどころか、初めて目にする不思議なものに興味津々である。
「ここに並んでいるのはクジラの内臓です。どれが心臓かわかりますか?」
と質問すると、「コレだ!」「違うよ、こっちだよ」と、たくさんの声が返ってくる。
「じゃじゃ〜〜ん、これが心臓です!」
と指さすと、「おっきい!」といって、きゃっきゃと喜ぶ。そのうち慣れてきて、「お姉さんはここで何をしているの?」といった質問が飛んでくる。この〝お姉さん〞という言葉を聞くと、テンションが上がる。
「お姉さんはね、なんでクジラがこの海岸で死んでしまったのかを調べるために、クジラのおなかの中や体の外側をいろいろ見ています。おなかの中を調べると、クジラが何を食べているのか、何が好きなのかもわかるんですよ」
そんな話をすると、子どもたちは「へえ、クジラも好きな食べ物があるんだ」と、真剣な顔で耳を傾け始める。
最初は少し怪訝(けげん)そうにしていた引率の先生たちも、目の前にいる大きなクジラや、そのおなかから出てきた内臓を見ながら、私の話を聞いているうちに、だんだんと身を乗り出して耳を傾けてくれるようになる。
きっと、本物のクジラや内臓を見ながら聞いた話は、教科書に載っている話よりも、ずっとずっと子どもたちの記憶に残るだろう。私はそう信じている。引率の先生たちの記憶にも。
もちろん、そんないい話ばかりではない。
以前、海岸にたまたま散歩に来たと思われる親子がいた。就学前と思われる幼い子どもが、ずっと私たちの作業を見ていたので、「こっちへ来て、近くで見てみない?」と声をかけると、親御さんがあわてて子どもの手を引っ張り、立ち去ってしまった。そんなこともある。
もっとあからさまに、「クジラの死体なんて汚くて臭いから近づいちゃだめよ」と、子どもを叱っている親御さんの声を聞くこともある。
でも、それはその親御さんが悪いわけではない。ストランディング(漂着、座礁)という現象が起こっていることが、広く知られていないゆえだ。
もしも海岸で、クジラや他の生き物の調査をしている人を見かけたら、一休みしているタイミングを見計らって声をかけてみてほしい。時間に余裕があれば、きっといろいろ教えてくれるはず。
なぜなら、研究者はみな、生き物たちの話をしたくてたまらない人ばかりだから。
※本記事は『海獣学者、クジラを解剖する。』を一部掲載したものです。
『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』
日本一クジラを解剖してきた研究者が、七転八倒の毎日とともに綴る科学エッセイ
『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』
著: 田島 木綿子
発売日:2021年7月17日
価格:1870円(税込)
【著者略歴】
田島 木綿子(たじま・ゆうこ)
国立科学博物館動物研究部研究員。 獣医。日本獣医畜産大学獣医学科卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻にて博士課程修了。 大学院での特定研究員を経て2005年、テキサス大学および、カリフォルニアのMarine mammals centerにて病理学を学び、 2006年から国立科学博物館動物研究部に所属。 博物館業務に携わるかたわら、海の哺乳類のストランディングの実態調査、病理解剖で世界中を飛び回っている。 雑誌の寄稿や監修の他、率直で明るいキャラクターに「世界一受けたい授業」「NHKスペシャル」などのテレビ出演や 講演の依頼も多い。
海獣学者、クジラを解剖する。
日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』が発刊された。海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発刊を記念して、内容の一部を公開します。
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