【埋蔵金伝説】武田信玄を支えた山岳遺跡、黒川金山で見つけたあのお宝とは?

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戦国時代最強武将とも言われる武田信玄。その武田軍の財政を支えたのが甲斐の金山から産出される甲州金。その1つとされているのが、黒川金山遺跡。ゴールドラッシュを目論み、山深い場所に位置する黒川金山遺跡で見たものは?

 

生涯において戦に負けることはほとんどなかったと伝わる武田信玄。戦国最強とも謳われる強大な力を支えた要素の一つは、「金」であったと言われています。領地の甲斐の国(現在の山梨県)に産出する金から「甲州金」と呼ばれる金貨を鋳造したことで、財政基盤が整い軍事力・政治力の強化に繋がっていきました。

信玄公の誕生は大永元年(1521年)11月3日。まもなく生誕500年を迎える節目の年に、当時に栄えた金山のひとつである「黒川金山遺跡」を訪れました。
 

ブナやコケより見つけたいのは金色のやつなのだ

黒川金山遺跡は、現在の甲州市塩山にある山梨百名山のひとつ鶏冠山(けいかんざん)の山中に位置します。今回は柳沢峠を起点とし、金山遺跡を訪れてから鶏冠山の山頂を経由する周遊コースを選択。

柳沢峠から黒川金山遺跡を目指す(⇒コースタイム付き登山地図


駐車場から車道を横断して登山道に入ると、すぐにブナやカラマツ、カエデなどの落葉樹に囲まれた気持ちの良いトレイルが始まります。筆者が訪れた9月中旬は紅葉に少し早い時期であったものの、この山域は多摩川の上流部に位置し、笠取山と同じく明治時代に東京都(当時の東京府)が買い上げた水源地のひとつ。水が豊富な場所だけあり、至る所でコケの群落が目にも鮮やかなモスグリーンを楽しませてくれました。

鶏冠山には「もののけ姫」に出てきそうな場所も多く、コケ好きにはたまらない


それはそうと、実はこの辺りは武田の埋蔵金伝説が残るエリア。明治の終わりに高橋某さんという人が金の延べ棒を発見するも、その直後、滝壺に転落して非業の最期を遂げたという話がまことしやかに伝わっています。埋蔵金を見つけた途端に死んでしまうなんて出来過ぎなストーリーですし、さすがに元ネタが古すぎて裏を取ることは叶いません。

「きさらぎ駅(※Wikipedia)」のように、ネットコミュニティにより作られた都市伝説である可能性も大いに考えられますが、噂に影響されやすい筆者は、それらしき岩陰を見つけるたび内部をヘッドライトで照らしてみることにしました。

「億万長者になったら仕事なんて辞め、ハワイで遊んで暮らすんだ!」「いや、やっぱり勝手に売ったらバレるよな。連絡先は山梨県? 東京都水道局? それとも警察の落とし物係?」なんて良からぬことを考えていると、あっという間に山頂方面と金山遺跡方面とのルートを分ける分岐に到着です。

ここから金山遺跡を目指す場合、南東方面へ山腹をトラバースする道を辿ります。一般には山頂を直接往復する登山者が多いのか、今までの登山道と比べると少々荒れ気味であり、沢を横断する箇所では上流から流されてきた大木で進路が塞がれている場面もありました。ただ、道標を含めてルートは明瞭であり、道迷いの可能性は少ないでしょう。

 

まさかの通行止め! めげずに見つけたあの宝石とは?

柳沢峠から黄金を探しつつ2時間半。立岩沢の分岐から尾根を左に巻くと、「黒川金山跡上」と記された道標が現れました。どうやら目的地である黒川金山遺跡の上部に到達したようです。国土地理院の地形図やトレッキングマップによると、ここから遺跡をぐるっと回れる「黒川金山跡循環歩道」というルートがあるはずなのですが、なんと片方の入り口にトラロープが張られて通行止めになっています。

黒川金山跡上の道標。循環歩道にはトラロープが張られていた


仕方なくもう片方の登山道を下ることにし、ほどなく遺跡の最下部へ到着しました。ここは循環歩道のもうひとつの分岐点になっており、清流沿いにカツラやクルミの大木が並ぶ休憩適地です。とりあえずザックを下ろして周囲に当時の名残を探してみましたが、考古学の専門家でない筆者にとってはいささかハードルが高そうです。

それなら花より団子よ、とばかりに、今でも沢の中に残っているであろう砂金採取で一攫千金を狙うことにしました。

すると、水の中にキラキラと光る金色の粒が大量に見えるではありませんか。「すわ、夢のハワイ移住か!」と、脳裏にヤシの木が浮かんだのも束の間、指でつまんで水中から持ち上げてみると、まるでミルフィーユのように簡単に薄く剥がれてしまいました。

こ、これは! まさかのGOLDでは!? と期待したのは一瞬だけ・・・


残念ながらこれは黄金ではなく、金銭的な価値のない金雲母(きんうんも)なのでしょう。比重の重い金は砂の奥底に埋まっているはずであり、スコップやパンニング皿など専門の道具がないと見つけるのは困難ではないかと思われます。

一方で、しばしば金と同時に産出される水晶の欠片をいくつか拾えたのは幸運でした。到底、値段がつくものだとは思えませんが、数百年前の人が掘った(そして捨てた?)モノをいま手にしていると思えば、感慨もひとしおです。

おそらく値打ちがないので捨て置かれた水晶。捨てる神あれば拾う神あり。


詳細な場所は明かせませんが、興味のある方は埋蔵金と一緒に探してみてはいかがでしょうか。きっと、「お金で買えない価値がある」とは、このような体験を指すはずです。まぁ、本心としては大判小判を見つけて大金持ちになりたかったのですが・・・。

 

こんな山中に1,000人住んでいた? ついに発見! 信玄時代の名残

閑話休題。ついついカネに目が眩んでしまいましたが、今回は武田ゆかりの山岳遺跡を探るのが目的。このまま往路をピストンするのでは何のために訪れたのかわかりません。少々思案しましたが、せっかくなので登山道から外れて調査することにしました。

登山ガイドなので、登山道のない山を“藪こぎ”して進んだ経験もあるし、万が一のためのロープやガチャ類(カラビナやスリングなど)も装備しています。地形図と睨めっこしつつ、道なき道を進んでいきます。

ひと登りもすると、目に飛び込んできたのは意外なものでした。斜面が棚田のようなひな壇状になっており、幅10mから20mほどのテラスがいくつもあるのです。戦国時代の山城における曲輪(くるわ)の痕跡のようにも見えますが、どうやらこれは金山を操業していた「金山衆(かなやましゅう)」の居住区の名残のようです。

かつての居住区跡。テラス状に斜面が切り崩されているのがお分かりになるだろうか?


当時、この辺りには「黒川千軒」という鉱山町が存在し、最盛期である武田信玄の時代には実際に1,000人あまりもの坑夫や遊女が暮らしていたことが、過去の調査の結果では明らかになっています。「こんな所に、よくもまぁ・・・」と思わずため息が出る思いです。

ただしこの地形だと、ルートファインディングは難しいものでした。循環歩道が通行止めになっていることも起因していると思いますが、かつては居住区・鉱山跡だったことから、明らかに人の手で整地された不自然な段差や積石の跡があり、準備なしに踏み込めば迷うこと間違いありません。

筆者は多少なりとも登山道のない山歩きに慣れているとは言え、ここはもともと鉱山の跡。ヒドゥンクレバス(雪の下に隠れているクレバス)ならぬ、落ち葉に埋もれたヒドゥン坑道に落ちたらひとたまりもありません。やはり、不要不急に登山道を外れて立ち入るのは賢明ではないでしょう。

小一時間ほど周囲を散策すると、目の前に大きな岩盤が聳えました。よく確認すると、岩の隙間に人の背丈ほどの高さの穴が空いています。さすがに危険を感じて中には入りませんでしたが、ヘッドライトで照らした限り、洞窟はかなり奥の方まで続いているようです。きっと、これが金山の採掘跡のひとつなのでしょう。

入り口が塞がれている坑道跡。岩盤に見える白い筋、もしかしたら金鉱脈か?


現在、この坑道口は落ちてきた岩のせいで半分ほど塞がれている状況。もしかしたらその影響で循環歩道が封鎖されたのかもしれません。道迷いや転・滑落の可能性が高いのは間違いありません。やはり、登山道を外れて進むのは、危険の伴うものとして、来た道を戻ったのでした。

 

もっと人気が出てもおかしくない山だからこそ・・・

遺跡を見学した後、立岩沢の分岐まで戻って鶏冠神社(鶏冠山)方面へと歩みを進めます。急斜面につけられたジグザグ道をしばらく登って鞍部に到着すれば、北東の岩壁の上にある鶏冠山のピークまではあと少し。山頂直下はまるで瑞牆山のような雰囲気であり、大岩やシャクナゲの根を掴んで身体を持ち上げながら、ほどほどの高度感を味わえます。

辿り着いた山頂からは、大菩薩嶺や富士山、東京方面の展望の展望を楽しめました。また、鞍部の反対側にある黒川山の見晴台からは、金峰山や笠取山、雲取山などのパノラマが広がります。

鶏冠山の山頂から見た大菩薩嶺。イメージより尖って見えるのが面白い


今回のコース上、循環歩道の通行止め区間を除いて難所と言えるのは山頂直下にある小さな岩場程度であり、その他はアップダウンも少なく歩きやすいコースです。東京都水道局の道標もしっかり整備されていますし、前述の通りコケや樹林が美しく戦国時代の歴史ロマンまで楽しめる名山です。隣の大菩薩嶺と並び、初心者からマニアックな層まで人気を集めてもおかしくはないでしょう。

しかし、今回はシルバーウイークの連休中であったのにも関わらず、山中で行き交ったパーティーは4、5組ほど。東京を中心に緊急事態宣言が発令中だということを差し引いても、帰りの中央道での大渋滞を考えれば決して登山者が多い山だとは言えません。

マイナスイオン多めの六本木。右の割れた部分には何が書かれていたのだろう?


だからこそ、現在の黒川金山跡循環歩道の通行止め措置は残念に感じます。規制の理由が登山者や管理者のリスクを考えてのことなので仕方がありませんが、金山衆の住居跡や坑道跡などの史跡を十分に垣間見ることすらできない現状には失望しました。

黒山金山遺跡は身延町の中山金山と共に「甲斐金山遺跡」として国の史跡にも指定されている名所です。遺跡の詳細を記した解説板などを設置したり、周辺の整備に力を入れたりすれば、ピークハントが目的だけではない登山者が増え、地元にも様々なメリットが生まれるのではないでしょうか。

山岳遺跡を新しく作ることは出来ませんが、すでにあるものをより良く見せることは可能です。2007年に世界遺産へ登録された石見銀山の例も考慮し、今後の展開に期待したいと思います。

 

黒川金山遺跡の後に訪れたい 武田氏ゆかりの立ち寄りスポット

最後に、せっかく武田信玄の歴史の足跡をたどる旅に出たのですから、下山後に訪れておきたい武田氏ゆかりの立ち寄りスポットも紹介いたします。

 

天目山 栖雲寺

陽炎を神格化した摩利支天は武士に人気だったそう。石庭はゆっくり回って30分ほど


歴史ファンの登山者にお勧めしたい立ち寄りスポットが、柳沢峠から車でおよそ50分の「天目山 栖雲寺(てんもくさん せいうんじ)」。信玄から遡ること6代前、室町時代に敵方である上杉憲宗に追われた武田信満(のぶみつ)が自害した場所であり、その後、滅亡の危機から復興を遂げた新生武田家にとって、この場所は聖地として崇められるようになります。

時代は下って武田最後の武将・勝頼(信玄の息子)も、天目山の戦いにおいて自身最期の地として栖雲寺を目指します。結局、織田勢の手が一歩早く、道すがらの甲州市大和町田野付近に果てることとなりますが、栖雲寺はそれほど武田家に重要視されていたお寺だということがわかるエピソードです。

宝物庫には信玄公が上杉謙信の刀を受けたと伝わる鉄製の軍配などの文化財が残されており、摩利支天堂や磨崖仏など見どころ満載の広大な石庭も必見です。また、蕎麦切り発祥の地(諸説アリ)として、蕎麦打ち体験会なども開催予定だそうです。ちなみに、私が勤務している風の旅行社では、栖雲寺さんに宿泊して「禅」の生活を体験するツアーも開催しています。ご興味のある方はいかがでしょうか。

⇒山梨・甲州市 栖雲寺で禅寺体験!

 

やまと天目山温泉

入浴には栖雲寺の近くにある「やまと天目山温泉」がお勧めです。全国でも珍しいpH10.3もの高アルカリ性温泉であり、ぬるぬるとした肌当たりが特徴の“美肌の湯”として知られています。

川沿いの木々を眺める露天風呂の爽快感もさることながら、筆者のお気に入りは加温されていない源泉風呂。かなりぬるめの湯温ですが、のんびり浸かっていると登山の疲れがスーッと消えていくかのようです。ただし、浴槽はあまり大きくありませんので、くれぐれも独り占めで長湯しないようご配慮ください。

なお、お風呂の壁画といえば富士山のタイルアートが定番ですが、ここでは鎧兜を身につけた武者たちの姿が描かれています。特に解説はありませんでしたが、軍旗に印された「大」という一文字から、中心にいる人物は天目山を目指す途中で自害した武田勝頼だとわかります。史実では叶わなかった勝頼最後の願いがこんな形で実現するとは・・・。入浴中、私の頬に流れていたのは汗だけではなかったかもしれません。


※山梨百名山に鶏冠山は2つあり、「とさかやま」と読む方は岩稜の難峰です。間違いのないようお気をつけください。

プロフィール

川上哲朗

日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡ、旅程管理主任者。(株)風の旅行社で主にネパールトレッキングの企画・販売を担当。
コロナ禍において山のライター、シラス漁師、鮮魚店の売り子、ポニーのお世話などの副業を始め、あらためて自分の好きなことを仕事にする喜びを感じている。1985年生まれの子育て世代。ペットは深海生物のオオグソクムシ 。

今がいい山、棚からひとつかみ

山はいつ訪れてもいいものですが、できるなら「旬」な時期に訪れたいもの。山の魅力を知り尽くした案内人が、今おすすめな山を本棚から探してお見せします。

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