発生から5年目を迎える那須雪崩事故。2017年3月27日――その日、現場では何が起きていたのか

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2017年3月27日、那須温泉ファミリースキー場周辺でラッセル訓練を行なっていた高校生らに雪崩が襲いかかり、栃木県立大田原高校山岳部部員7名と顧問の教員1名が死亡した。栃木県高体連登山専門部が主催していた「春山安全登山講習会」に参加、雪崩に巻き込まれた事故だった。

まもなく発生から5年目を迎える那須雪崩事故を、発生の経緯から取材、検証したノンフィクション『那須雪崩事故の真相 銀嶺の破断』。本書より一部を抜粋して掲載する。

 

雪崩事故がきっかけで始まった講習会

大田原高校山岳部員たちは、栃木県高体連が主催し登山専門部が主管する「春山安全登山講習会」に参加していた。参加者は、栃木県内の山岳部がある七校の男子51名、女子7名、合計58名。講師と引率の教員14名。

登山専門部部長は、大田原高校の校長。委員長は、大田原高校山岳部顧問のA教諭(50歳)。委員長の下に16名の専門委員がいて、この中から3名の副委員長が選任されている。

「春山安全登山講習会」は毎年、春休み中の3月下旬に那須岳で開催される。講習会の会長をA教諭が務め、講習会全体の責任者になっていた。実技講習を行なう二日目、三日目は本部となる宿舎にいて、生徒たちを直接指導することがない。副会長はB教諭(副委員長)が務めていた。B教諭は、主任講師であり、実技講習の責任者だ。このほか、講師を務める5名の教員がいる。そのなかに前登山専門部委員長のC教諭(54歳、真岡高校山岳部顧問)がいた。

講習会本部は、「ニューおおたか」という旅館に置かれた。主は、那須山岳救助隊隊長(88歳)で、那須岳のことを熟知している。「春山安全登山講習会」が那須岳で開催されるようになった昭和40(1965)年以来、ずっと本部が置かれている。

登山専門部が掲げる「春山安全登山講習会」開催の目的は、次の三点だった。

  1. 積雪期登山の正しいあり方を示し、生徒に理解させる。
  2. 安全登山に必要な知識・技術を習得させる。
  3. 春山登山の事故防止に役立てる。

この講習会の始まりは、昭和33(1958)年5月に開催された「第一回有雪期安全登山講習会」で、栃木県高体連と山岳連盟の共催だった。不定期開催だったが、昭和39(1964)年3月から、定期的に那須岳で行なわれるようになっている。

なぜ、「安全登山講習会」が始まったのか。昭和25(1950)年12月30日、谷川岳を登山中の栃木県立佐野高等学校山岳部の11名が雪崩に巻き込まれ、生徒4名、教員1名、計5名が死亡した。この雪崩事故を反省し、登山知識と技術を向上させ、事故防止を目的に始まっている。5名が死亡する雪崩事故が起きたことをきっかけに始まった「春山安全登山講習会」なのだった。

 

2017年の講習会

初日に座学を終え、二日目の3月26日は班別の雪上訓練が行なわれた。参加した生徒たちは五班に分けられた。

一つの高校の山岳部だけで班を作っているのは、強豪校で部員の多い一班の大田原高校だけだった。二班から五班は、二校の山岳部を合体させて編成されていた。

雪上訓練は、キャンプ地から約一時間ほど遊歩道を登り、標高1500メートル付近の「峰の茶屋跡」周辺の斜面で行なわれた。

講習の進め方は各班の講師に一任され、講習すべき内容は登山専門部で決めている。

各班が必ず行なう講習には、以下のようなものがある。

  • 用具の使用法(ピッケル、ザイル)
  • 登下降(キックステップ、滑落停止技術)
  • 登攀技術(三点支持と基本姿勢、リズムとバランス、固定ザイルの使用法、耐風姿勢)
  • そのほか(ウエストロープ装着法、ロープの結び方)

このほか、ハンドテストと呼ばれる弱層テストの方法や雪洞の作り方が講習された。

4月、5月の登山では残雪、夏山登山では雪渓での行動がある。ピッケルを使い登山靴を雪にしっかりと蹴り込んで、キックステップという歩き方で登ったり、下ったりする。沢を徒渉するとき、ロープを張って安全を確保することもある。

山岳部の活動で必要な技術を学ばせ、体験させる。「春山安全登山講習会」には、そのような目的があるという。

 

茶臼岳登山の中止

3月27日は、「春山安全登山講習会」の三日目、最終日だ。計画では、講習の仕上げ、復習として茶臼岳登山を行なうことになっていた。しかし、日本の南岸を北東に進む低気圧の影響で、26日夕方から雪が降り始め、27日朝までに30センチほどの雪が積もった。テントが雪の重みで潰れかかったり、入り口が雪で埋まったりしていた。茶臼岳登山を躊躇させるほどの大雪だった。だが、降雪は弱まり、風はそれほど強くなく、視界は1キロほどあって、標高1400メートルあたりまで山は見えていた。

午前6時過ぎ、大雪と悪天が予想されたため、茶臼岳登山を中止することが決定された。代わりに“ラッセル訓練(歩行訓練) ”を行なうことになった。決定したのは、A教諭(登山専門部委員長)、B教諭(主任講師)、C教諭(前登山専門部委員長)の三人だ。

歩行(ラッセル)訓練は、営業が終了している那須温泉ファミリースキー場ゲレンデと隣接する樹林帯で行なうことになった。

計画されていた茶臼岳登山は参加校別に行動することになっていたが、計画変更された歩行(ラッセル)訓練は、前日の実技講習の班構成のまま行なうことになった。ただし、校務のため山を下りた教員や三日目不参加の生徒がいた。

このラッセル訓練に参加したのは、七校の山岳部部員。男子40名と女子6名の計46名。一班は14名で大田原高校12名(一、二年生)と講師1名、引率教員1名。二班は9名で、真岡高校8名(一、二年生)と講師1名。三班は12名で、矢板東高校5名(二年生)と那須清峰高校4名(二年生)、講師1名と引率教員2名。四班は13名で、矢板中央高校3名(一、二年生)と宇都宮高校8名(一年生)と講師1名、引率教員1名。五班は女子6名で、真岡女子高校4名(一年生)と矢板東高校2名(一年生)と講師1名の7名だった。講師と引率の教員は計9名だった。

大田原高校山岳部は強豪校なので一班。一班を引率していたのは、主任講師のB教諭。B教諭は真岡高校の教員で、山岳部顧問。登山歴は33年、高校山岳部の顧問歴は11年だが、栃木県高体連が派遣した海外登山に三度参加し、1995年、27歳のときにニンチンカンサ峰(中国・チベット自治区、7206メートル)に登頂している。登山専門部でもっとも実力がある教員とみなされていた。大田原高校山岳部は、9年連続で栃木県代表として高校総体に出場している強豪校で、部員たちの体力は他校に比べ、抜きん出て強かった。そのため、“実力がある”と評されるB教諭が、講師として指導していた。

B教諭と二班講師のC教諭が顧問を務めている真岡高校山岳部は、前年秋の新人戦で優勝。大田原高校山岳部は僅差で破れ、二位だった。10年連続して栃木県大会で優勝し、全国高校総体出場を目指す大田原高校山岳部にとっては、屈辱の敗戦となった。

「真岡高校山岳部は強い。今年は大田原高校山岳部が負ける。インターハイに出場するのは真岡高校だろう」

他校の山岳部顧問の言葉に、部員たちは危機感を募らせていた。最強のライバル校、それが真岡高校だった。

 

雪崩発生

2017年3月27日午前8時43分、雪崩が発生した。

一班の14名の隊列の先頭から7番目の一年生が、右斜め上20~30メートル、一時の方向に雪崩が発生するのを目撃した。瞬間的に身をかがめ、手に持っていたピッケルを雪面に刺し、耐風姿勢をとった。しかし、体が一気に雪に飛ばされた。後方に宙返りして倒れ、流され始めた。そのとき、立っているたくさんの人たちの姿が一瞬見えた。そのため、雪崩に流されているのは自分一人だけだと思ったという。木に激突。右足の膝が木に引っかかって止まった。体の上を雪が流れ、全身が完全に埋没した。意識はあった。呼吸もできた。もがけば脱出できるかもしれないと思い、手足をバタバタと動かした。だが、まったく脱出できない。そのうち、手足は自分の意識に関係なくバタバタと動き始めた。じっと待つ方が助かる確率が高いのではないか。

「止まれ、止まれ」

勝手に動く手足に言い聞かせた。幸運にも呼吸することができ、救助されるまで意識を失わなかった。

「凍死するのか……」

と思いながら、雪に埋もれていた。

流されたのは、7番目の一年生一人だけではなかった。

大田原高校山岳部の一班14名全員が、流されていた。二班の9名。三班の12名。四班の13名。合計40名の生徒と8名の教諭が雪崩に巻き込まれるという大惨事が起きていたのだった。

 

消防への救助要請まで39分経過

二班は、ゲレンデから灌木が生えている斜度30~40度ほどの尾根状の急斜面を登り、樹林限界付近に達していた。右手から吹く北西風が強まってきたため、二班講師のC教諭は下山することを決めた。

「那須岳としては風が弱いから、(尾根上で)ラッセル訓練をすることを決めた。風が強まってきたらラッセル訓練はできない」

と考えたという。

斜面を三班、四班がいる下方向へトラバースしていたとき、雪崩に襲われた。C教諭は、雪崩に流されて下半身が埋没。上半身は埋まらなかったので、自力脱出できた。無線で講習会本部にいるA教諭を呼んだ。幾度呼んでも応答がない。

三班と四班は、雪崩に流されたC教諭と二班生徒がいる狭い沢筋の上部に見えていた。叫べば声が届いた。二班生徒にケガ人が出ていたが、全員の確認ができた。三班は一部の生徒が流され、四班は誰も流されていなかった。二班、三班、四班の生徒28名、教諭6名の生存は確認された。

一班講師のB教諭を無線で呼んでも応答がない。この段階で、一班が雪崩に流されているとは考えなかったという。

女子だけの五班は、生徒6名、講師1名の計7名。女子は全員、ラッセルをするのが初めてだった。そのため、樹林帯に登らずゲレンデにいた。五班の講師は緊迫する無線のやりとりを聞き、センターハウスへと下山した。

二班講師のC教諭に無線で指示を仰いだ。「大会本部へ行き、A教諭に雪崩が発生したこと、救助要請するように伝える」ことを指示された。五班講師が、スキー場から十分ほど歩いて本部に到着すると、A教諭は駐車場に停めた車に荷物を積み込んでいるところだった。

「緊急事態です。雪崩が発生し、生徒が巻き込まれました。救助要請をしてください」
「えっ、どうしたんだ」

A教諭はすぐに消防と警察へ通報した。午前9時22分だ。雪崩発生は午前8時43分。発生から、39分が経過していた。

ヨーロッパ・アルプスで発生した雪崩事故の統計では、雪崩発生から18分後で生存率は93パーセント。35分以降では、生存率は約30パーセント以下に低下する。生存救出の可能性が高いのは、雪崩発生から18分以内だ。初期段階で死亡する原因は外傷だ。雪崩による死亡の原因でもっとも多いのが、窒息なのだ。窒息死を免れたいなら、雪に埋まった人間を少しでも早く救出するしかない。18分以内に掘り出し、呼吸を確保することが、捜索救助の目標値となる。ともかく早く救助すればするほど、生存の可能性が高くなる。

 

救助隊

午前9時33分、那須地区消防本部の救助隊13名が出動した。

那須山岳救助隊の副隊長(67歳)に隊長から電話がかかってきたのは、午前9時半過ぎのことだった。

「スキー場で雪崩があって、3人くらいが埋まっている」

テレビで春の選抜高校野球大会の試合を見ていた副隊長は、救助隊連絡網で他の隊員に連絡し、装備、食料、水を準備した。準備は10分ほどで終わった。隊長から二度目の電話がかかってきた。

「すぐにスキー場に来い」

副隊長と1名の隊員が、那須温泉ファミリースキー場へ向かった。那須町の自宅からスキー場まで約35分。10時40分に到着し、センターハウスへ行くと大高隊長がいた。副隊長は、「スキー場で雪崩」と聞いていたため、「スキー場は営業を終了していたので、スキーのマニアが山に入って雪崩に遭ったのだろう。ゲレンデで人が埋まっているのだったら、すぐに収容できる」という軽い気持ちだったという。

隊長が、言った。

「雪崩が起きたのは、一本木の左の山の中だ。高校生が50人いる。一本木から左に登れ」

副隊長は驚いた。50人も高校生がいるなど、まったく想像をしていなかったからだ。

「なぜ?」
「なぜ高校生が山に登っている?」
「なぜ、高校生が雪崩に遭遇した?」

昨日の夕方から那須岳周辺に30センチを越える大雪をもたらし、太平洋沖を北上する低気圧は、北関東沖を通過。東北沖へと北上していた。低気圧が通過したので、強風が吹き始めた。那須岳周辺は、強風地帯として名を馳せている。日本海から吹く北西風が朝日連峰を越え、那須岳、特に主峰の茶臼岳に当たると風は南北に分かれ、風速を増す。

強風が吹き、地吹雪となっていた。約1キロ離れた雪崩現場は見えなかった。センターハウスから500メートルほど先にある「一本木」は見えていた。「一本木」は、ゲレンデの上部にぽつんと生えている木だ。雪崩に流されたスキーヤーが衝突し、死亡した事故があり、その記憶を留めるためにゲレンデの真ん中に残された木だった。

ゲレンデには膝上ほどの新雪が積もっていた。圧雪車が、「一本木」まで圧雪してくれた。副隊長ら2名の那須山岳救助隊、消防の救助隊3名、警察官4名、計9名が雪崩現場を目指し、登り始めた。踏み締める雪は、さらさらとしていた。湿った重たい雪ではなかった。登山靴の底に付着することもない。

高校生たちが登った踏み跡は、なにもなかった。高校生たちが20人、30人も登ったなら足跡が残るはずだ。だが、斜面はまっさらな雪で覆われていた。登り始めると、さらに天候は悪化していく。横殴りの強風が足跡を消し、視界は20メートルほどしかない。救助を待つ高校生たちは、どこにいるのか。救助隊が大声で叫ぶが、風の音にかき消された。「一本木」から30分登ると、笛を吹く人が見えた。急いで登っていくと、15メートルほど上で手を振っている人が見えた。先生らしき人がいた。雪崩事故現場はここに違いない。

午前11時45分、救助隊が到着した。A教諭が消防に通報してから2時間23分後。雪崩発生から3時間2分が過ぎていた。

「ケガをした人が木に寄りかかって、呆然としていましたね。3、4人いました。たぶんケガをして動けなかったんでしょう」

現場を見ると掘り出されたままの状態で、雪の上に横たわっている生徒が3人いた。白い顔をして意識がなく、唇は真っ白だった。外傷はなく出血もない。眠ったような感じだったが、生きていると思えなかった。まわりの雪を払っただけで、体の半分以上が埋もれている生徒たちが見えていた。教員たちが、ピッケルで雪を掘っていた。

「自分のシャベルで早く掘ろう」

救助活動が始まった。

副隊長は、ザックを背負ったまま堀り出した。雪崩で流れた雪“デブリ”はブロック状になり、硬くなることが多い。だが、そこにブロック状の雪はまったくなかった。雪は柔らかくて掘りやすかった。ともかく掘った。雪崩に埋没した高校生を救出しなければならないのだ。

「こちらにも隠れている。ここにも、こっちにも、埋まっていた。1人、2人、3人というふうにどんどん増えていった」

直径10メートルくらいの狭い範囲に、5人が埋もれていたのだ。

人の上に人が埋もれていた。埋まっているのは、深くても160センチほどだ。掘っていると、雪の中からうめき声が聞こえ、誰かが叫んだ。

「生きているんじゃないか?」

掘ると顔が見えてきた。雪面に横たわっていた3人とは、まったく顔色が違う。生きている人間の顔色だ。

「しっかりしろ」
「おーい」

副隊長が呼びかける。生徒が眠ってしまうことを恐れた。

「眠っちゃダメだぞー」

両肩を抱き、体を揺すった。

「頑張れ!」

口の中に雪が入っていない。呼吸ができる。窒息しないはずだ。掘っている穴が深くなると、雪が体の上に滑り落ちていく。体をツエルトでくるみ、雪がかからないようにした。

頬を触ると温かい。

「生きている」
「うーん。うーん」

埋まっていた生徒が、うめき声を上げた。深さは1メートルくらいだ。体の向きは上向きで、斜面に対して横向き。頭は南側。手袋が取れかかっていたので、凍傷になったらいけないと、はめようとしたが手は握りしめられ、なかなかはめられなかった。指が広がらないのだ。

後続の消防の救助隊が、次々に到着する。

この生徒を早く下ろそう。ブルーシートにくるみ、雪の上を引きずって下ろすことになった。

この生徒を掘っていると、さらに2人の体が見えてきた。

「掘っているうちに、ここにいる。ここにもいる。足の一部が見える。そういうのがあって、どんどん掘っていったら、最終的に亡くなったのは8人だった」

一班14名のうち、大田原高校山岳部部員7名と引率教員1名の8名が死亡。負傷者は40名にもなった。救助隊が救出した生徒は低体温症で二日間意識不明だったが、生還できた。一班で生存したのは、この生徒ら5名と講師のB教諭だけだった。B教諭は、肺に穴が開く肺気胸になり、肋骨5本を骨折する重症だった。

 

※本記事は『那須雪崩事故の真相 銀嶺の破断​』(山と溪谷社)をWEB用に編集し、一部を掲載したものです。

 

『那須雪崩事故の真相 銀嶺の破断』

高校生ら8名が死亡、40名が重軽傷を負った那須雪崩事故を徹底的、かつ多角的に検証した渾身のノンフィクション。2019年度ミズノ スポーツライター賞優秀賞受賞。


『那須雪崩事故の真相 銀嶺の破断』
著: 阿部 幹雄
発売日 :2019年6月1日
価格:1760円(税込)​

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【著者略歴】

阿部幹雄(あべ・みきお)

1953年、愛媛県松山市生まれ。写真家、ビデオジャーナリスト。雪氷災害調査チーム前代表、雪崩事故防止研究会代表。第49,50,51次南極観測隊員。8名が亡くなったミニヤコンカ遭難で生き残り、長く、遺体収容活動を行なってきた。HTB北海道テレビで「MIKIOジャーナル」を担当。『生と死のミニャ・コンガ』など著書多数。

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