裸一貫で臨む制約からの解放『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』【書評】

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評者=荻田泰永(北極冒険家)

裸の大地 第一部 狩りと漂泊

著:角幡唯介
発行:集英社
価格:1980円(税込)

 

著者の説明はもはや不要だろう。角幡唯介の最新刊は、あの極夜行の翌年から話が始まる新シリーズだ。「裸の大地 第一部」とあるので、きっと続編があるのだろう。スター・ウォーズのように壮大な物語となっていくのだろうか。

彼とは一〇年余り前にカナダ北極圏を共に歩いた仲間だ。私自身も、本書に出てくる地域を二度ほど旅した経験があるので、文章から風景を想像できる。しかし、おそらく読者のほとんどが心にモヤッとしたモノを抱えるに違いない。つまり、おい角幡よ、それは一体君はどこで何をしているんだい、という疑問だ。

本作の内容は至ってシンプルである。探検の前提となっている人間主体の計画性に疑問を呈し、計画性の基礎となる食料の期限から解放されるため、自然主体の狩猟による食料調達の可能性を探りながら、グリーンランドを放浪した話、ということだ。

極夜行を終え、新たな旅を希求した彼がめざしたのが、計画性からの解放である。食料を狩猟により自給することで、時間的な制約を打破できるのではないかと考えた。古来、現地のイヌイットたちは野生動物を狩りながら生きてきた土地でもある。自分にもそれができるのではないかという試みだ。まだ狩猟に慣れていない角幡は、ひたすら北極で右往左往し続ける。それが延々と展開されていく。

放浪の中で角幡は、人間とは土地の中で生きる存在であることを強く再認識する。当たり前のことではないか?と感じるかもしれない。土地の中で生きるとは、通りすがりの来訪者の目線ではなく、その土地の栄養素で体組成を構成し、自らの身体も土地に還していく定住者の営みだ。探検家という来訪者ではなく、土地に組み込まれた存在になること。それが彼の目的だ。

ヨハン・ホイジンガは代表作『ホモ・ルーデンス』の中で、人間の文化を遊びの下に考察した。ホイジンガの定義によれば、遊びとは時間的空間的な制約がある。スポーツであれば競技場や試合時間。宗教祭祀も同様だ。探検や冒険もまた、時間的空間的な制約の中での営みである。それは、帰る場所がある来訪者による行為であるからだ。しかし、定住者であるイヌイットには、この生活がいつ終わるという制約がない。それは死によってのみ規定される、人為から離れた制約だ。

角幡が試行錯誤するのは、この人為的な時間的空間的制約、つまり遊びの層から土地に根ざした定住者の生活の層へと移行することだ。しかし、とはいえ彼も日本に定住する来訪者である。グリーンランドで死んでいく定住者とは、明らかに立場が異なる。ならば、より土地に密着するためには定住すればいいではないか、では答えが出ない。なぜなら、探検とは憧れが根底にあるからだ。憧れとは対象に近付く能動性だ。辿り着いてしまうと、もう向かうことができない。近付くが、永遠に触れられない、この隔靴掻痒をどのように解消していくのか、それは続編に期待したいと思う。

私が続編に期待したいもう一つの点は、計画性を打破するために自然に主体を委ねる狩猟という手段を用いるにあたり、偶然性に支配される狩猟をどのように「計画」に組み込んでいくかである。計画性打破のために偶然性を計画していく、という、一見矛盾している行為を、どう折り合いをつけていくか。偶然とは何か?ということを掘り下げていく必要があるだろう。偶然とは無から生じた突発的事項ではなく、未来において必然の糸が絡まるその一点に立ち現われてくる現象そのものだ。

探検家の新しい境地への試行錯誤を、ぜひ皆さんもご堪能あれ。

 

評者=荻田泰永

1977年生まれ。北極冒険家。2000年から19年までの20年間に16回の北極行を経験。18年1月に日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功し、同年の植村直己冒険賞を受賞。21年、神奈川県大和市に「冒険研究所書店」を開設。 ​​​

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