夏は農業、冬は消雪。暮らしを支える「水」を管理する|北信州飯山の暮らし

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

日本有数の豪雪地域、長野県飯山市へ移住した写真家・星野さん。里から森と山を行き来する日々の暮らしを綴ります。第30回は、暮らしを支える水の話。

文・写真=星野秀樹

 

 

暮らしに欠かせない山の水

今年は梅雨がない。というか、雨が降らないままに梅雨が終わってしまった。

アスパラガスやズッキーニなどの代表作物の他、田んぼを抱える我が羽広山集落は農業中心の村。こんな日照りの年はみんなの顔が日焼けで黒くなるだけならいいが、深刻な水不足が想像されてなんとも心配。畑は砂漠みたいに砂埃が立ち始めているし、いつもだったら猛威を振るう雑草でさえもカラカラで元気がない。この先一体どうなってしまうのだろう。

 

台地状の高原にあるこの集落は、遥か足元を流れる出川と井出川という二つの川に挟まれているものの、直接集落に流れ込む川がない。そのため山の水をどう引き込むかが昔から大きな問題だったと聞く。約500年近く昔、室町時代に隣の温井集落の枝郷として始まったと伝えられる羽広山、当初は人口も少なかったので沢水をまとめることで耕作も可能だったのかもしれない。

現在村には「堤係」という役があって、集落の溜池である「堤」と、村内に引き込まれている水の管理を任されている。2人1組で構成されるこの役に、僕も数年前に充てられたことがあるが、大雨の時や、渇水時の水門の開閉などが主な仕事だった。他にも、関田山脈源流部に掘られた水路「五六七」があって、山道のヤブを分けながら往復3時間余りの道のりを、この水路の整備に行くというのも重要な役目だった。たどり着いた「五六七」は太いブナが立ち並ぶ斜面の末端にあって、本流に落ちる沢水の一部が、幅30cmほどのか細い水路を通って堤へと誘引されていた。「五六七」というのは享保年間(18世紀前半、江戸時代)に実在したとされる村人の名前。推察するに、このころ村の「五六七」さんが、山の水を少しでも多く取り込むために山中に水路を作った、ということだろうか。江戸時代にはすでに水の確保が大きな課題だったのかもしれない。現在その水量を見ると、それを取り込んだところで大きく村への流量が変わるとは思えないが、今でも毎年この水路の整備・管理が行われていることを考えると、やはりいかに水を確保することが大切なことかと想像される。

 

 

村には山の水を引き入れた大きな堤(溜池)があって、農業用水と、冬の消雪用の水として利用されている。今年のような少雨の年でも、豪雪の山が蓄えた水がなんとか流れ込んできている。

数年に一度、この堤の「泥上げ」が、やはり堤係の指示のもとに行われる。山から流れ込んだ泥で堤の底が上がり、水の排出が困難になるのを防ぐのが目的だ。数週間前から堤の水を抜き、当日は村の男たちが腰まで泥に浸かって、溜まった泥を流し出す。あーだ、こーだと声を張り上げ、体を張って、時に知恵を絞りつつ、決して若くもない男衆の泥んこ遊びさながらの作業は、共同体としての力の結集そのものだ。ドジョウを見つけて慌てて捕まえたり、大きなイワナの死骸を見つけて大騒ぎしたりしつつも、村の共有財産の管理がなんとも大切で大変かを思い知らされる。

この堤が作られたのは明治時代のことで、それ以前はもう少し上流部に「上の堤」があったらしい。水漏れがひどくなり、現在の「下の堤」が大規模な工事で作られたため、今では完全にその役目を終えてしまったようだ。

 

田んぼをやらない自分にとっては、堤の水が重要なのは夏よりもむしろ冬の方だ。自分の敷地内に引き込んだ流れを消雪に利用させてもらっているから。除雪機で飛ばす雪は場所が移動するだけだけど、水は確実に雪を消していく。水を上手く流すための管理はなかなか大変だけれど、しかし毎冬、どれだけこの水に救われていることだろうと思う。

 

背後に広がるブナの森。雨と雪に満たされたこの森は、山の潤いをたっぷりと蓄えて、里の暮らしを支えている。500年の里、羽広山。ここでは、山の水に満ちた暮らしが育まれている。

 

 

●次回は8月中旬更新予定です。

星野秀樹

写真家。1968年、福島県生まれ。同志社山岳同好会で本格的に登山を始め、ヒマラヤや天山山脈遠征を経験。映像制作プロダクションを経てフリーランスの写真家として活動している。現在長野県飯山市在住。著書に『アルペンガイド 剱・立山連峰』『剱人』『雪山放浪記』『上越・信越 国境山脈』(山と溪谷社)などがある。

ずくなし暮らし 北信州の山辺から

日本有数の豪雪地域、長野県飯山市へ移住した写真家・星野さん。里から山を行き来する日々の暮らしを綴る。

編集部おすすめ記事