日本有数の豪雪地域に移住した理由とは?|北信州飯山の暮らし

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日本有数の豪雪地域、長野県飯山市へ移住した写真家・星野さん。里から森と山を行き来する日々の暮らしを綴ります。第35回は、移住にいたるまでのお話。

文・写真=星野秀樹

 

 

「暮らし」を考えることから

そもそもなんで移住してきたの?って聞かれることがある。

それも市街地じゃなくて、不便な山辺の方に。

なぜならそこは雪が深くて、森が近くて。

脈々と続く、人の暮らしがあった、から。

 

僕が初めてこの飯山に来たのは2003年1月のこと。今住む集落のさらに3kmほど先に「森の家」という体験型宿泊施設があって、そこで行われたスノーシューイベントの取材が目的だった。千曲川沿いの国道から、怪しげな除雪道をたどってたどりついたイベント会場は、雪原野の真っ只中にある、雪が雪に埋もれるような集落だった。

それまで散々雪山登山をしてきた自分だったけれど、「豪雪地帯の暮らし」というものを初めて意識したのがこの時だったかもしれない。高い雪壁の向こうに昔話に出てくるような家並みを垣間見て、気軽な「雪遊び」とは違う真剣な「雪国の暮らし」に圧倒された記憶がある。

以来縁あって、この年はさらに仕事で2回、家族連れ(当時はまだ3人家族だった)で1回、この森の家にやってきた。そこで出会ったのが「ブナ」と「雪」、それに「暮らし」だった。

 

その頃僕は、気軽に通える「自分の森」を探していた。

撮影助手をしていた頃、師匠がなんだかんだと自然観察や撮影に通う「森」があって、そんなフィールドを自分も持ちたいと思っていたのだ。丹沢や富士山麓周辺の森に通ってはみたものの、なにかがしっくりこず、なかなか自分のテーマとして煮詰めていけるような「森」には出会えなかった。そこで欠けていたものこそが「雪」であり、雪とともにある森、すなわち「ブナ林」が、自分が欲している存在だと気づかされたのは、この鍋倉山山麓へと足を運ぶようになってからだった。

 

2005年の厳冬期に、自分の撮影目的にこの豪雪地帯の森へ初めて入った。雪の多さと美しいブナ林に圧倒され、以降、ライフワークとして通うようになった。始めのころは、とにかく季節ごとの事象や、季節の移ろいに出会うことを求めていたけれど、やがて、森に隣接する「暮らし」の存在にも惹かれるようになった。

 

 

以前にも書いたけれど、鍋倉山は深い原生林ではなく、暮らしの背後にある里山だ。

だから里で森を感じて、森で里を感じなければ、この森のことは何も見えてこない、と思ったのだ。

「暮らさなければ撮れない」と。

 

もともと家族の中には、「いつかは田舎暮らし」という漠然とした想いもあり、そんなあれこれが合わさって、移住するということが、少しずつ具体的になり始めた。

 

2010年の秋、森の家がある柄山集落に築200年の古民家を借りて、僕は「山村暮らしごっこ」を始めた。神奈川の自宅から通う冬の日々は、撮影どころではなく、借家を雪から掘り出すだけで過ぎていく。そんな豪雪地帯に暮らすことの実体験は、それまでの雪山登山の経験とは違う、暮らすことへの覚悟を教えてくれた。ここで家族を伴って、はたして生きていけるのか。

一方、家のすぐ裏に続くブナ林は、暮らしの先にある自然の有り様を気づかせてくれる。

そして、さらなる木々の深みと、山稜のうねり、山々の連なりが、延々と僕を招いていた。

 

それから4年後、僕たち家族は、ここ羽広山集落へ移り住んだ。

柄山への行き帰りの途上、たまたま売りに出ている物件を見つけたのも何かの縁だったのだろう。「山村暮らしごっこ」で得た自信と覚悟、それが移住への後押しになったのは言うまでもない。

ここへ移り住んで、かれこれ8年の月日がたった。

 

雪とブナと里、それに何かの縁に誘われて、僕たち家族は今この村に暮らしている。

やがて今年も、もうまもなく雪がヤブを覆い、森の奥へと僕を導く季節がやってくる。

そんな雪が繋ぐ道をたどって、僕は里と森を行き来するのだ。

 

 

●次回は1月中旬更新予定です。

星野秀樹

写真家。1968年、福島県生まれ。同志社山岳同好会で本格的に登山を始め、ヒマラヤや天山山脈遠征を経験。映像制作プロダクションを経てフリーランスの写真家として活動している。現在長野県飯山市在住。著書に『アルペンガイド 剱・立山連峰』『剱人』『雪山放浪記』『上越・信越 国境山脈』(山と溪谷社)などがある。

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