ヤブ、雪、ブナ…森と里をつなぐもの|北信州飯山の暮らし

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日本有数の豪雪地域、長野県飯山市へ移住した写真家・星野さん。里から森と山を行き来する日々の暮らしを綴ります。最終回は、森と里をつなぐものについて。

文・写真=星野秀樹

 

 

森と里をつなぐ通い路がある。

それは、夏はヤブ、冬は雪を伝う、道なき道だ。

この里に暮らし、森を行き来する日々は、そんな道をたどることで繰り返される。

時には、かつて人が通ったであろう、か細いヤブ道を踏むこともある。

山菜やきのこ、薪炭の木を求め、あるいは里に引く水など、山の管理のために人が通った道であったに違いない。山中には「水源林」と幹に彫られた大きなブナがあったり、今も集落の水源管理のためにヤブを刈り払いながら行き来する山道もあったりする。

時に山中で出会う古道の痕跡は、かつてあった人の暮らしの名残に出会ったような気がして、どこかしら暖かく、それでいてなんだか寂しく感じられる。

 

僕は今暮らすこの集落に移り住む前、ここから二つ隣の集落で、築200年を超えた家を活動の拠点として4年間ほど借りていた。今から200年前といえば江戸時代後期。4~5代に渡って暮らしを繋いできた家だったと聞く。考えてみれば当たり前の話だが、昔はどの家も、集落の裏から切り出された木で作られたという。重い積雪を支える家の骨格となる部分にはブナやナラ、その周囲の部材にはスギなどの針葉樹が使われていた。今でもこの里山には、樹齢の異なるブナ林が小さなグループを作って点在しているが、それは薪炭や建材などの目的によって伐採の場所が決められていたという時代の名残だという。

立派な梁に使われているブナは樹齢200年ほどの太さだろうか。もしそうならば、森に生まれて200年、切り出され、里で過ごして200年。合わせて400年のブナということになる。こんなふうにして森と里をつないで生きる木の姿を、古民家という人の住まいの形で見ることができるというのはとても興味深いことだと思う。

 

僕が森と里を行き来するようになって意識しだしたのは「水」の存在だ。「超」豪雪地帯であるこの土地では多量の雪と雨が降る。その水を蓄えるのがブナの森だ。残雪とみずみずしい新緑の稜線から眺める風景は、山も森も里も水に溢れ、なんと豊かな土地なのかと実感する。

もちろんそればかりではない。梅雨の頃に深く森を包む霧、森の湿気をたっぷり吸って育ったきのこ、そして雪、雪、雪…。この森はいつだって潤いに濡れている。

そうやって蓄えられた「水」はやがて里へと下る。

潤いの恵は、米や酒など、暮らしの中にカタチとなって現れる。

だから森から里にやってくる「水」の存在は、まさに森と里をつなぐ象徴と言えるだろう。

 

 

村の飲み会などで時々聞かされる話に、「名前を刻んだブナ」がある。かつて雪が落ち着いた3月頃に、子供たちがスキーを履いて、集落の裏から尾根に取り付き、日本海を望む稜線まで登ったという。その際記念に、とあるブナの幹に、各々名前を刻んで帰ってきたという話だ。

「その木、今でも分かりますか?」

「そりゃ分かるさ」

「行ってみたい!どの辺りですか?」

「あいや、そりゃわからんな」

なにしろ酒の席の酔っ払い同士の会話だからラチがあかない。でもきっとそのブナは、今でもどこかの尾根筋にあるに違いない。

今以上に森と里の行き来が盛んだったころ、その道中にそびえたっていた一本のブナ。

子供たちが、大人たちが、毎年道なき雪尾根をたどり登ってきて、その木の下に憩ったに違いない。

僕は幾人もの里人の名前が刻まれたそのブナに、ぜひとも出会ってみたいと思っている。

 

森と里をつなぐもの。

それはヤブ、雪、木、水、人やケモノ…。

ブナの木が導く雪尾根をたどって、明日また、森へ行ってこよう。

 

 

星野秀樹

写真家。1968年、福島県生まれ。同志社山岳同好会で本格的に登山を始め、ヒマラヤや天山山脈遠征を経験。映像制作プロダクションを経てフリーランスの写真家として活動している。現在長野県飯山市在住。著書に『アルペンガイド 剱・立山連峰』『剱人』『雪山放浪記』『上越・信越 国境山脈』(山と溪谷社)などがある。

ずくなし暮らし 北信州の山辺から

日本有数の豪雪地域、長野県飯山市へ移住した写真家・星野さん。里から山を行き来する日々の暮らしを綴る。

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