北岳山小屋物語――新探訪① 広河原山荘 2022年6月にオープンした山荘経営に傾けられる情熱

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南アルプス北部の玄関口として知られる広河原で、長きにわたって営業してきた広河原山荘が、この夏に少し場所を移してリニュアルオープン。真新しくなった新・広河原山荘に、『南アルプス山岳救助隊K-9シリーズ』『北岳山小屋物語』などの著書で知られる作家の樋口明雄が訪れた。

文=樋口明雄

 

南アルプスの主峰、標高3193メートルの北岳。その登山起点に広河原山荘がある。1985年7月から営業が始まり、多くの登山者たちに親しまれてきたこの山小屋も、35年目にして老朽化。取り壊しが行われた。

新しい広河原山荘は、野呂川を挟んだ対岸――、野呂川広河原インフォメーションセンターとバスターミナルを挟んで隣接し、今年――2022年6月にオープンした。指定管理者は山梨交通、略して山交。県民にはなじみ深い名前だが、県外の登山者には、甲府駅から広河原を結ぶシャトルバスを運営する会社だといえばわかりやすいだろう。

リニューアルされた山荘は鉄筋コンクリート造りの三階建て。延べ床面積は260.14坪。外観は木造り、ノッチが組まれたログハウス風デザインとなっていて、コンクリート建築独特の物々しさはうかがえない。いわゆる山小屋として見れば、どこかイメージが違ってゴージャスな感じがする。かといって、北アルプスにある豪壮な山小屋ほどの規模はなく、むしろこぢんまりとまとまった印象。しかしながらウッディな外観のおかげで、訪れる登山者たちの目にもなじむ。

エントランスのスロープを歩き、扉を開いて入ってみる。コンクリの打ちっぱなしの内装はまるで美術館のような感じだが、要所要所に使われる白木の材がアクセントとなって、冷たい感じはまったくない。

一階ロビーの片隅に黒いペレットストーブが鎮座し、煙突が吹き抜け構造を垂直に延びて屋外に突き出す。その傍には、ふかふかのソファがいくつか向かい合わせに置いてあって、登山で疲れた体で思わず座りたくなる。

ロビーの奥は四人がけのテーブルが並ぶ食堂となっていて、屋外に野呂川を見下ろすテラスの席もあり、桃源ポークのカツカレーやネギトロ丼、山梨名物の鳥もつ煮や麺類、地元の食材を使った料理などが注文できる。季節のジェラートや生ビールなどのアルコールも人気だ。

突き当たりの受付カウンターに立っていた佐野正幸氏。いただいた名刺を見て驚いた、〈広河原山荘 支配人〉と肩書きがある。管理人ではなく支配人――それで納得した。すなわちここは山小屋というよりも、ホテルなのである。

さっそく山荘の中を案内していただいた。下足室で登山靴を脱ぎ、スリッパを履いて木製階段を昇る。

二階。板張りの廊下の左右に並ぶのは、宿泊者が使う大部屋が四室と個室扱いの四人部屋が一室。畳敷きのスペースと梯子がついた二段ベッドが並び、ここにもコンクリの壁と調和するように、ほどよく木材が使われ、かすかに木の香りがする。すべて山梨県産のヒノキだそうだ。照明の多くは間接照明で、部屋を照らす光は柔らかい。

「登山者ばかりでなく、観光目的のお客様もいらっしゃるので、この二段ベッドはとくにお子様たちに喜んでいただいてます」

佐野支配人はそう説明する。よく磨き込まれた無垢の木製梯子を上り下りするのは、子供たちにとって新鮮な体験なのだろう。そういえば一般家庭に二段ベッドなんて、いつの間にか聞かなくなったし、夜行列車の寝台車も今はほとんどなくなってしまったらしい。

大部屋の様子。山梨県産のヒノキを採用し、部屋を照らす光は間接照明が柔らかく照らす


畳が綺麗に敷き詰められたスペースは、寝床ごとに障壁が立てられ、しっかりとコロナ対策がなされている。しかもきちんときれいにたたまれた布団。清潔なシーツ。

「甲府市内のホテルで、ベッドメイクを修業してきました」

そんな説明に、なるほどと納得してしまう。

この二階にはタイル張りの共同浴室が男女に分かれて作られている。一度に数名が入れる広さで洗い場も人数分ある。山小屋に浴室なんて贅沢だと思うが、発電機ではなく、商用電源が引かれた広河原にある山荘だからこその設備である。またこの風呂とは別に、登山者が使える有料シャワー室も建物の外にある。三階の通路の左右にも客室。大部屋がひとつと、個室扱いの小部屋が七つ。いずれも同じ意匠で作られている。

肩書きにふさわしく、シャキシャキと機敏に歩く佐野支配人。三階にある個室のひとつに案内していただいた。

「そちらにおかけください」いわれるまま、窓際にある向かい合わせのソファに腰を下ろした。

サッシの窓越しに野呂川が見下ろせる位置だ。しかも、ちょうど真正面に北岳が望める。何という絶景。夜明け前に目を覚まし、窓の外を見ると、ご来光を仰ぐために頂稜をたどる登山者たちのヘッドランプの光の列が見えることがあるという。登山起点であるだけでなく、たとえば紅葉目当ての観光客など、この山荘に宿泊したい人はたくさんいるだろう。

「もしも将来、Wi-Fi環境が整ったりしたら、ここをワーケーションの場として有効利用することもできるんじゃないかと思ってるんです」

なるほどと思った。こんな素晴らしい景色の中でいつも仕事ができたら、どんなにいいだろう。もっとも、すぐそこに見える北岳に呼ばれるように、ついつい山に登ったり、川で釣りをしたりで、仕事がちっとも進まない状況も考えられるが・・・。

「ちょっとその窓を開けてみていただけます?」

いわれるがまま、サッシ窓を開いてみた。とたんに外から入ってくる涼やかな山の風に交じって、川の瀬音が聞こえてくる。思わず目を閉じ、深呼吸をしたくなった。

「ここ、最高ですね」

本音で感想をつぶやくと、佐野支配人は隣のソファからニッコリと笑った。登山者や観光客のみならず、野呂川でヤマトイワナを狙う釣り人の定宿としても、ここは便利な場所だ。

「私も渓流釣りが好きなんです。登山はもちろん、トレイルランニングもやってます」

山や川といった自然、そしてアウトドアが大好き。そんな彼だからこそ、この山荘を愛し、経営に情熱を燃やしているのだろう。

最後に観光地としての広河原の話題になった。

「“上高地と景色が似ているのに知名度が低い”と、新聞に書かれたことがあるんですが、私はその言い方に抵抗を感じるんです。あなたはどう思われますか?」

そう振られて、私は思った。たしかにこの広河原は上高地と同じく標高1500メートル。清流があり、吊橋がかかり、美しい高峰を望むロケーションである。そういう点で、双方は似てなくもない。

「おっしゃるとおり、“上高地に似ている”とか“山梨の上高地”などとここが呼ばれているのは知っています、けれども、それだとどうしても二番煎じ、亜流の印象が拭えません。たしかに規模ではあちらにかなわないけど、ここには信州の上高地にない、独自の素晴らしいものがたくさんあると思います」

私の言葉に佐野氏は深く頷く。その柔和な笑みの中に、新しい広河原山荘支配人としての自信と誇りが見えた気がした。

 

プロフィール

樋口明雄

1960年、山口県生まれ。山梨県北杜市在住。山梨県自然観察員。
2008年に刊行した『約束の地』(光文社)で、第27回日本冒険小説協会大賞および第12回大藪春彦賞を受賞。13年には『ミッドナイト・ラン!』(講談社)で、第2回エキナカ書店大賞を受賞。
南アルプス・北岳を舞台とした山岳小説「南アルプス山岳救助隊K-9」シリーズのほか、屋久島を舞台にした小説『還らざる聖域』(角川春樹事務所)、『屋久島トワイライト』(山と溪谷社)、ノンフィクション『北岳山小屋物語』(山と溪谷社)など著作多数。近刊に『それぞれの山 南アルプス山岳救助隊K-9』(徳間文庫)がある。

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