雷鳴とどろく中、太閤秀吉が馬にまたがり駈け下ったとされる、太閤道を歩く
高野参詣道の一つ黒河道(くろこみち)は、かつて「橋本より高野への近道」と評された。黒河道には、かの太閤秀吉が弘法大師空海を畏れて、馬で駈け下ったという記録、言い伝えがあり、太閤道とも呼ばれている。今回は、宿場町・橋本から高野山上に通じる黒河道を紹介する。
写真・文=児嶋弘幸
太閤秀吉は、亡母の三回忌法要に際し、高野山内で禁令の笛・太鼓による能狂言を開催していたところ、突然の雷雨と雷鳴に、弘法大師の怒りと思った秀吉は急ぎ馬にまたがり、ここ黒河道を駆け下ったとされる。『紀伊続風土記』には、その時の黒河道の経路について「千手院谷口より…銅岳の北より久保村に出(略)…丹生川を越え、わらん谷を歴て、明星か田和といふ峠を越え…」と詳細な記載がある。千手院谷口は現在の黒河口女人堂跡、銅岳は現在の雪池山とされる。
JR和歌山線橋本駅をスタート。橋本橋を渡り、国城山山麓の定福寺へ。定福寺をあとに、宮谷大師堂を経て、どばい坂と呼ばれる古道に入る。農道と交差、並行しながら果樹園の間を緩やかに登っていく。高野山麓の村々では、米や野菜といった収穫物を高野山・奥之院の弘法大師にお供えする風習が伝わっている。いわゆる「雑事のぼり」と呼ばれる風習で、黒河道はその主なルートとしても利用されていたとみられている。
「右 かうや道」と彫られた道標石が置かれている
やがて岩掛観音を祭る展望所に着く。先ほど歩いてきた橋本市街、紀の川が眼下に広がっており、良い休憩ポイントだ。鉢伏の井戸から明神ヶ田和を経て、わらん谷沿いの道に入る。わらん谷の滝、赤石を通過、丹生川に下る。市平橋を渡ると、いよいよ高野山上への登りにかかる。やや不明瞭な柿畑の間を抜け、つづら折れの急坂を登っていく。これが結構つらい。一気に登って美砂子峠へ。
美砂子峠から右は戦場山越えだが、ここでは南に越える。山ひだを縫う水平道が続いたのち、久保田和の旧久保小学校、現在の「くどやま森の童話館」に至る。傍らに道標石仏が祭られており、左は平集落跡経由で高野山上へ、ここでは直進して雪池峠に向かう。古道の雰囲気が残る道だ。しばらくして参詣者のお茶の接待所とされる茶堂跡に着く。参詣者は、ここでひと休みしたのち参詣を続けたとされる。徐々に傾斜を強めながら高度を上げる。
桜の老木があり、春には壮観な風景となる
明治14年2月21日と刻まれている
雪池峠の左上が雪池山、ここでは山腹道を直進、子継峠を経て一本杉に向かう。高野山内までもうひと息だ。一本杉分岐の車道を右にとって、鶯谷集落を抜け、黒河口女人堂跡を越えると、高野山内の警察署前バス停に着く。
橋本駅~定福寺~明星ヶ田和~市平~久保田和~雪池山~警察署前バス停
コースタイム:約6時間50分
プロフィール
児嶋弘幸(こじま・ひろゆき)
1953年和歌山県生まれ。20歳を過ぎた頃、山野の自然に魅了され、仲間と共にハイキングクラブを創立。春・夏・秋・冬のアルプスを経験後、ふるさとの山に傾注する。紀伊半島の山をライフワークとして、熊野古道・自然風景の写真撮影を行っている。 分県登山ガイド『和歌山県の山』『関西百名山地図帳』(山と溪谷社)、『山歩き安全マップ』(JTBパブリッシング)、山と高原地図『高野山・熊野古道』(昭文社)など多数あるほか、雑誌『山と溪谷』への寄稿も多い。2016年、大阪富士フォトサロンにて『悠久の熊野』写真展を開催。
世界遺産・高野山をめぐる巡礼の道
聖地・高野山の周辺には、数多くの巡礼道がのびている。いにしえの時代に思いをはせながら、歴史ある道をたどってみよう。