第2章 敗退の教訓|宗谷岬から襟裳岬~670㎞63日間の記録~
雪の分水嶺670kmを単独で踏破するために練り上げた緻密な計画。実は、その計画の背景には、前年に体験した痛烈な敗退があった。北へ向かうロマンを胸に手探りで挑んだ最初の分水嶺縦断計画に待ち受けていたものとは。第2章では、失敗に終わった2021年の分水嶺縦断を回想する。
文・写真=野村良太

カムイエクウチカウシ山をバックに
第2章 敗退の教訓
2019年春、志水哲也氏の著書『果てしなき山稜』(ヤマケイ文庫)をきっかけに、分水嶺の縦走を妄想していた。ただの妄想を計画へと移す行動を起こしたのは2020年夏。「積雪期単独北海道分水嶺縦断計画」と称し、具体的な準備を始めた。必要な装備をリストアップし、図々しくもいくつかの企業へ連絡を入れて物資面での支援をお願いした。幸いなことに、まだ何の実績もない若造のお願いを快く引き受けてくださる担当者が現われた。おかげさまで、「このリストで充分なのだろうか」という不安を除けば、準備は順調に進んだ。特に、学生のころからお世話になっている北海道のアウトドアショップ「秀岳荘」の小野浩二社長には直接の激励もいただき、身の引き締まる思いだった。

秀岳荘の小野社長(右)と
根拠のない自信と、特大の不安を抱えたまま、2021年3月25日、襟裳岬を出発した。デポ地点は佐幌山荘とピヤシリ山避難小屋の2カ所。GW明けまでの50日間の計画だ。そう、第1章で述べた計画とはまったく異なるものだった。出発は1ヶ月遅く、南下ではなく北上。日数は机上の空論通りの50日、デポは4カ所ではなく2カ所。今思えば、無謀な計画だった。


もちろん、自分なりに検討した結果の計画ではあった。2年前(2019年3月)の日高全山の経験から、縦断の終盤に技術的最難関の日高山脈を残したくないと強く思っていた。南下すれば、1ヶ月以上縦走し、疲弊しきった状態で日高に突入することは避けられない。それを回避したければ北上するしかないのだ。志水氏が著書の中で北上に対するロマンを綴っていたのにも影響を受けた。北上と決まれば、気象条件が安定する4月に日高を歩き、できるだけその先への余力を残したい。デポは極力数を少なくしたい、と安易に考えた結果、2カ所ならギリギリ行けるのではないかと思っていた。
当時の僕の計画の立て方の軸になっていたのは、合理性よりも理想を詰め込むような考え方だった。それは“ロマン”と言い換えてもいいかもしれない。事実、志水氏も「北上の方が北方ロマンティシズムのようなものを駆り立てられる」と綴っている。北上の方がロマンを感じる。日数もデポの数も少なければ少ない方が理想的だ。そんな思考が大半を占めていた。そして唯一、根拠を持ち合わせた「日高を4月に越えたい」という条件が加わったとき、最初の計画が浮かび上がったのである。
しかし、そんな邪念を山の神様は見逃さない。ロマンを詰め込んだ計画は現実味が薄く、論理性に欠けていたようで、徐々に綻びを見せ始める。まず、序盤から思っていたペースで進めない。北上では、日射を受けた南面の緩んだ斜面を登り、日陰となる北面のカリカリに締まった斜面を下るのが基本となる。登りは崩れる雪に喘ぎ、下りは滑落を恐れて慎重に行く他ない。これがいかに非効率的かということをこのとき初めて思い知らされた。加えて、新調したばかりの履き慣れていない登山靴で靴擦れを引き起こし、ペースは加速度的に遅れを見せる。当然、次第にストレスと焦りが募ってゆく。
とどめは10日目の夜に起きた。暴風雨にレインフライが剥がされ、テントポールが折れ、外に置いていたショベルが流された。ポールが折れてバランスを失ったテントの隙間から風雨が吹き込み、全身がずぶ濡れとなる。風でひしゃげたテントごと雪の斜面に押し付けられ、低体温症一歩手前の眠れぬ一夜を過ごした
原因は、切り立った稜線近くにかろうじてテントを張ったにも関わらず、張り綱の固定が緩く、また天候悪化を甘く見ていたことだった。そして、もっと根本的な原因は、行程が遅れている苛立ちと焦りや疲れから、テント場の標高を充分に下げなかったことだ。充分に標高を落とせば問題なくやり過ごせる悪天候だったが、それでは翌日同じ斜面を登り返さなければならない。少しでもここまでの遅れを取り戻そう、と間違ったテント場を設営してしまったのだった。ひとたび余裕がなくなると、行程や気持ちにゆとりがあればしないような判断ミスを、いとも簡単に起こしてしまうのだと身をもって痛感した。高い授業料だ。今後に生かさねばならない。
恐怖の夜を越えて、悪天候も収まり、暖を取り食事を摂ると落ち着きを取り戻した。いくつかの食料や燃料を浪費してしまったが、まだ即刻諦めなければならないほど枯渇したわけではない。なにせ、まだ10日分以上の食料がテント内の一角を埋めている。縦断を継続する選択肢もあるにはあった。だが、この計画では到底宗谷岬まではたどり着けそうもない。計画の詰めが甘かったせいで日程に余裕がなくなり、結果的には判断ミスも招いてしまった。このまま進んでも意味がない。決断は早かった。日高山脈南部の名峰、神威岳(1600m)を最後に、稜線を降りエスケープする。出発からわずか10日目での撤退だった。
麓の無人小屋・神威山荘での一夜は、惨めさを薪ストーブの温もりでごまかし、雪辱の灯を絶やさぬよう必死に計画を練り直す時間だった。神威山荘で書いたメモが残っている。「あまりにも早すぎる終わり。こんなにも惨めで虚しく情けない下山は初めて。全ては僕の実力不足で、今回の計画で自分に足りないものがたくさん見つかった。この気持ちを忘れないようにする。来年か再来年には必ずもう一度。最低でも20代の目標。」

最後のピークとなった神威岳にて

ストーブの温もりがありがたい
結局のところたどり着いた結論は、自然相手の登山において、自分本位の計画ではダメだという当たり前のことだった。いかにエゴを捨て、自然の懐に入り込んで仲良くしてもらうか。自分とは比にならない、自然という大きな存在に受け入れてもらうにはそれしかない。
まず、50日間では到底たどり着けない。心の余裕も含めてあと2週間は必要だ。北上だって実に効率が悪い。ロマンだなんだと言っている場合ではない。この際、日高を最後に歩かねばならないのはやむを得ない。南下だ、宗谷岬から出発だ。それなら2月中には出発しなきゃダメだな。そういえば日数も増えるのだから食料も燃料もデポも増やさなければ……。
こうして出来上がったのが今回の第1章の計画だったわけである。
「第3章」となる次回からは、いよいよ2カ月余りにわたる縦断の日々を1週間ごとに分割して振り返りたい。苦難と幸福に満ちた63日間。その始まりの7日間は、あまりにも先が思いやられるものだった……。
プロフィール
野村良太(のむら・りょうた)
1994年、大阪府豊中市生まれ。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡ、スキーガイドステージⅠ。大阪府立北野高校を卒業後、北海道大学ワンダーフォーゲル部で登山を始める。同部62代主将。卒部後の2019年2月積雪期単独知床半島全山縦走(海別岳~知床岬12泊13日)、2019年3月積雪期単独日高山脈全山縦走(日勝峠~襟裳岬16泊17日)を達成し、「史上初ワンシーズン知床・日高全山縦走」で令和元年度「北大えるむ賞」受賞。2020年卒業。2021年4月、北海道分水嶺縦断途中敗退。2021年春からガイドとして活動を始める。2021年4月グレートトラバース3日高山脈大縦走撮影サポート、6月には大雪山系大縦走撮影サポートほか。2022年2〜4月、積雪期単独北海道分水嶺縦断(宗谷岬~襟裳岬670km)を63日間で達成。同年の「日本山岳・スポーツクライミング協会山岳奨励賞」「第27回植村直己冒険賞」を受賞した。
積雪期単独北海道分水嶺縦断記
北海道の中央には宗谷丘陵から北見山地、石狩山地、日高山脈が連なり、長大な分水嶺を構成している。2022年冬、雪に閉ざされたその分水嶺を、ひとりぼっちで歩き通した若き登山家がいた。テントや雪洞の中で毎夜地形図の裏に書き綴った山行記録をもとに、2ヶ月余りにわたる長い単独登山を振り返る。
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